[読んだ本008-1]「Tao 永遠の大河 OSHO老子を語る」考察[1]

☆[読んだ本008]「Tao 永遠の大河 OSHO老子を語る」考察[1]


さて、今回は、現在もう新品では手に入らない「Tao 永遠の大河 OSHO老子を語る」について考察したいと思います。

OSHOと言えば、Netflixにドキュメンタリー映画があって、ちょっと「カルト宗教の教祖」的なイメージもあるかもしれませんが、

語っている内容は素晴らしいものばかりです。ですので、先入観なく読んでもらえると良いと思います。

◎美を美と決めた時

老子は言う

「天下の人が、皆、美を美と知ったとき、

そこから醜さが起こる。

天下の人が皆、善を善と知ったとき、そこから悪が起こる。

つまるところ

有と無は互いに補いあって、成長する」

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まずは、老子が語った言葉ですが、

この世界は「二元性」の世界です。

何かを「これが美しい」ということだと決めると、それと違うものは「醜く」なる。

どうしても何か「比較対象」が無ければ、「美しい」も「醜い」も決められない。

過去に何度も言ってきたように、全ての人が「同じルックス、同じスタイル、同じ性格・・・」であれば、

そこには「美しい」も「醜い」も存在しえない。

だから、「美しい」ものも、それ単体では存在できない。逆の「醜い」ものがなければ、「美しい」と判断できない。

だから、それらは、お互いに「支え合って」存在する。

◎両方を使うということ

両方を使いなさい。選ばないこと。

生とは相互依存だ。

罪も使ったらいい、それがあるのには目的がある。

さもなければ、そんなものは存在しないはずだ。

怒りも使ったら良い。

それがあるには目的がある。

さもなければ、そんなものは存在しないはずだ。

何者も目的なしに生の中に存在はしない。

どうしてそれが何の目的もなく存在できようか。

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世の中に何の「罪」も無ければ、「正義(ヒーロ)」も生まれてこない。

「苦」が無ければ、「楽」「快感」を味わうこともできない。

この世界が「ドラマティック」になるためには、「両極」が必要になる。

そうでなければ、毎日何の波も無い、平坦な日常が続くだけ。

もし「死」も無ければ、その平坦な毎日が永遠に続くことになる。

ずっと「真面目」に生きるのも良いけど、たまには「罪なこと」もした方が、

普段の「真面目に生きる」ことがより一層味わえる。

僕も、食べ物には気を付けていて、最近は余り「ジャンクフード」は食べないけど、

「たまには」と思って、ジャンクフードを食べたら、そのあと体が重いし、だるいし、胃腸の調子が悪くなる。

その体験をするから余計に、「ちゃんとしたものを食べよう!」と、その重要さを実感できる。

「真面目」に偏り過ぎないこと。それではこの世界の半分しか味わえない。

◎ネガティブも受け入れる

老子が言っているのは、

反対は本当に反対なのではなく、補足だと言うことだ。

それらを分けないこと。

区分けは虚構だ。それらは1つなのだ。

それらは互いに依存しあう。

どうして愛が憎しみなしに存在できよう?

どうして慈しみが怒りなしに存在できよう?

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極端な話、「暴力」が無ければ、その反対の「愛」「慈しみ」「優しさ」

なども実感することはできない。

テレビで、メキシコの治安の悪い地区の映像を見て、

「ああ、さすがに日本の身近にこんな事件は起きないね。日本は平和でありがたい」と感じられるように、

世の中の「大変なこと」「理不尽なこと」などがあるからこそ、

「この当たり前のような日常がありがたい、幸せなことなんだ」と気づくことができる。

良く、スピリチュアルなどに傾倒し始めると、

「ネガティブを避けないといけない」と思って、「良いこと」ばかりを願い始めるけど、

それでは本当に「ポジティブ」を味わうことはできない。

「人気」「人望」「承認」を得たいなら、逆に「批判」「否定」「中傷」なども覚悟しないといけない。

「大金」を得るなら、「失う」「狙われる」「嫉妬」なども覚悟しないといけない。

それを覚悟してでも、それはどうしても手に入れたいものなのか?

もちろん、それを求めて、手に入れるのも良い。

ただ、あなたの人生に「本当に必要なもの」「本当に求めるもの」は何なのか?を明確にすれば、余計な「ネガティブ」を受け入れなくていい。

◎何ものも「所有」しないこと

自分の子供を愛するのは良い点だが、彼らを所有しないこと。

自分の奥さんや旦那さんを愛するがいい。

ただし彼らを所有しないこと。

あなたが所有したその瞬間、奥深いところで、あなたも所有されてしまっている。

あなたが所有したその瞬間、あなたも所有されてしまっているのだ。

所有者が同時に被所有者なのだ。所有しないこと。

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何かを「手に入れる」と、それによって得られるものがある半面、

例えば、何かを手に持っていれば、行動が制限されるように、

精神的な意味でも、「私の夫、私の妻、私の子・・・」という風に、

「私の」になってしまった時点で、「私」の基準でその人を判断し始めてしまう。

「結婚したんだからこうするべき」「夫とは、妻とはこうあるべき」

「子供は勉強することが仕事であるべき」・・・

という風に勝手に「私」の基準ですべてを見始めて、

「それは良いこと」「それは悪いこと」という風に判断し始める。

そして、人にそうやって判断を持ち込み、「こうあるべき」と思い始めれば、

自分もそうでなければいけなくなるので、勝手に色々な制限を掛け始める。

相手に、「もっと頑張らないと!」と言った以上は、自分も「もっと頑張らないと」になっていく。

そして、そうやって自分が頑張るから、相手も頑張ってくれないと許せなくなる・・・。

という風に、「所有」してしまうことで、お互いにその人本来の生き方を制限して、「我慢合戦」のようになってしまう。

「所有」することは、同時に相手にも「所有」されることになる。

お互いに、「相手をコントロール」し続けなければいけなくなる。

逆に、「相手のありのまま」で居させてあげられるようになると、

お互いに頑張り合わなくて良いし、意外とそうなってみると、お互いに心が離れて行かないし、

逆に「こんなに楽で自分で居させてくれる人を手放したくない」という気持ちが湧いて、離れて行かない。

「相手を手放すことで、相手が離れない」ということが起こってくる。

これは、人間関係だけではなくて、全てにおいてそう。

「求めない」「執着しない」ことによって、それが自然と入ってくるようになっていく。

◎手柄を主張しない

「彼は行い、しかも、着服しない。

成して、しかも、何一つ手柄を主張しない。

何も手柄を主張しないからこそ、

その手柄は、彼から奪いさられ得ないのだ。」

もし、あなたが、世の中で「誰かさん(somebody)」で居ようとしたら、

多分反対に、あなたが「誰でもない人(Nobody)」であることが証明され得る。

それは必ず証明されるに違いない。

だがもしあなたが主張せず、誰でもない人のままでいたら、どうしてそれが反証され得る?

あなたは誰でもないことにおいて、あなたは誰かさんになる。

そしてそれは誰にも反証できないし、誰もそれと競争もできない。

もし勝ち誇ろうとしたら、あなたは言い負かされるだろう。

主張しないこと。そうすれば、あなたの主張は完全に満たされる。

勝ち誇ろうとしないこと、そうすれば、あなたの勝利は絶対だ。

頑張らないこと、ただいるのだ。そうすれば、頑張ってやれるような事は皆

自分からひとりでにあなたところにやってくるだろう。

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もしあなたが、「私はこれを達成した!」と誰かに誇るならば、

「いやいや、私はもっとすごいことをできる」とか

「あの人はもっとすごいことを達成してるよ」という風に、言い返されたり、

例え、それが「世界一」であっても、それに挑戦するものが現れて、

いずれそれは破られることになっていく。

この世界は二元性の世界なので、誰かが何かを強く主張すれば、必ず「反発」「反対意見」が出てくる。

「自我」とはそういうもの。

だから、「誇る」ということは、同時に「余分なエネルギー」を生み出し、

それに反発する力を生み出してしまう。

そして、この世界の法則として、平衡(へいこう)を保とうとするので、「過剰」を解消しようと、

「おごれるもの久しからず」「盛者必衰の理」「出る杭は打たれる」などと言われるように、

全ては必ず平衡に戻ろうとする。

だから、そこに「余分なエネルギー」を生み出さないこと。

必要以上に「誇らない」「主張しない」「欲張らない」「欲しない」・・・。

そして、私たちの意識の仕組みとして、「足りない」と思いこむものは、「不足」するようになっている。

だから、あなたが何かを強く求めたり、「私がやるんだ!」と思い始めると、それは、「大きな穴(不足)」となって、

その穴を埋める努力をしないといけなくなる。

そうではなく、あなたが必要以上に求めず、

「私には必要なものは何であれ、もたらされる」と知り、

ただ目の前のことに従って生きていけば、自然とあなたが本来求めてきた「人生」「道」に沿っていく。

「足りない」というフィルターで自分を見なくなると、今まで気づけなかった「特色」が見えてくる。

そうなってくると、「ああ、『自分』を生かせば、必要なものは手に入る」という世界になっていく。

誰かに「誇る」ということは、「誇らないといけない」ということは、

「自分を示さないと、価値がある人間で居られない」と思いこんでいるということ。

その通りに、「足りない自分を埋める戦い」が続くことになる。

それを見抜くこと。

◎あなたがすべてを手に入れるには

何一つ求めなかった人間が、

どんな形であれ、成功しようなどとしなかった人間が、

満たされるべきどんな野望も追い求めなかった人間が、

突然、全てが満たされていることを見出す。

生命それ自身が、その秘密を分かち合おうと、その豊かさを分かち合おうと、彼の所へやってくる。

なぜならば、主張なしにとどまる人間は、1つの「空(くう)」になるからだ。

その「空」の中に、命は、その秘密や豊かさを注ぎこみ続ける。

生と言うのは真空に惹きつけられるものだ。

もしあなたが「空」になったなら、あらゆるものがひとりでにやってくるだろう。

頑張ったら、失敗は間違いない。

がんばりっこなし、成功は絶対に確実だ。

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これが世の中でよく言われる「頑張らない」ということ。

でもそれは、「何もしない」ということとは微妙に違って、

「作為を持って生きない」ということ。

私たちはどうしても幼少期からの「クセ」で、「何かになるために頑張らないと」という思い込みがある。

そしてそれは、極端に言えば、僕(トモヒト)が「立派な大人になるためには、野球選手になって、活躍しないといけない!」と

なぜか思いこんで、野球を頑張り始めるようなこと。

みんな、それが「私」にとって最適かどうかも分からずに、「社会的に、それが、すごい、偉い」とされているから、それを目指す。

それが「作為のある生き方」。

「お腹が空いたから食べる」のではなくて、「社会的に正午ごろに食べるから食べる」みたいなもの。

自分が本当にそれを求めているかも分からずに、知らず知らずのうちに、

「(社会的な)成功」を求め始める。

すると、「本来の私」が求めるもの、「特性」「特質」「特色」などが見えなくなっていき、「私本来の生き方」を見失っていく。

「それ(社会的な夢)」に向かって頑張れば頑張るほど、「本来の私」を見失うから、自分にとっての「一番の近道」も見失っていく。

「私はこうでなければならない!」と頑張るから、そういう「鎧」「仮面」を着始めて、他のものが入る余地が無くなっていく。

「空(くう)」ではなく、「私」の中に、色々な(社会的)「常識」「欲求」「夢」・・・が詰まっていき、

あなたが本当に「幸せ」を感じられるようなものは入る余地が無くなっていく。

「現実」と戦わないこと。「現実」と戦えば、色々なことを見逃す。

「現実」はあなたに、「あなたが思いこんでいることはこんなことですよ」

「あなたは、この現実を見て、何を望むんですか?」ということをみせてくれている、「ヒント」。

あなたの目の前に現れたことを「信頼」して、それに従って生きていく。

そうすれば、一番スムーズに生きることができる。