☆[サイド089]「老子道徳経」考察012
◎第33章
知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽。
[書き下し]
人を知る者は智なり。自らを知る者は明なり。
人に勝つ者は力有り。自ら勝つ者は強し。
足るを知る者は富む。強めて行う者は志有り。
其の所を失わざる者は久し。死して而も亡びざる者は寿し。
[意訳]
人を知る者は智なり。自らを知る者は明なり。
人に勝つ者は力有り。自ら勝つ者は強し。
人のことを理解できる人は知識があると言える。でも自らを理解できている人は、さらに明晰と言えよう。
人に勝つことができる人は力があると言える。でも自分に勝つことができる人は、さらに強いと言える。
足るを知る者は富む。強めて行う者は志有り。
「自分がすべてを持っている」と分かっている者はさらに富む。
コツコツと努力する人は、自分が進むべき道が見えてくる。
其の所を失わざる者は久し。死して而も亡びざる者は寿し。
この基本を見失わない者は末永く生きることができるし、たとえ肉体が滅びても、その「命」は続いていく。
[考察]
人のことを理解できるのは、「知識・教養がある」と言える。
でも、多くの人は分かっているようで、一番自分のことが分かっていない。
多くの場合、「私はこういう人間である」と思っているのは、
「他人からの評価」だったり、学校の成績や社会での「他人との比較」から、
「私はこういう人間である」と思い込んできたもの。
そうではなくて、「あるがままの自分」、肩書とか立場とか社会的な役割とか、誰か、何かとの比較をのけて、
ただ純粋に、「私はこう感じている」「私はこういうことがしたい」ということが分かっている人は、
さらに「明晰」だと言える。
人と勝負して勝てる人は「力がある」とは言える。
しかし、それも「他人との比較」であって、場所が違えば、もっと「力のある人」が居て、負けることもあるかもしれない。
でも、自分が「こうしよう」とか「こうしてみたい」とか「こうするべき」と感じたことを、
「自分との約束」を破らずに、守り続けることができる人は、
さらに「強い人」と言えるだろう。
そうやって、「明晰」で「強い人」は、自分や環境を「足りない」なんて言わない。
たとえ、一般的に見て、例えば「社交性が足りない」とか「理系が弱い」としても、
まずは、その「私の特性」を見極めて、「じゃあどうしたらこんな私を生かしていけるか?」を常に考えているから、
そして、「足りない部分」を補うよりも、まずは自分の「持っている部分」を知って、それをさらに強化できるから、強みを持てる。
また、意識的にも、「足りない」「欲しい」と思っていれば、その通りに、
「何かが足りなくて、手に入れないといけない」という現実を見続けることになる。
あなた自身が「私に足りないものは無い、今のままで完璧だ」という視点から、
「じゃあ、今から私ができることは?」と目の前のことに精いっぱいやっていけば、色々な意味で豊かさが生み出せる。
「足りない」ことにフォーカスして欲しがるのではなく、
「今持っているもの」を見て、それを100%生かすことにフォーカスしていこう。
そうやって、「自分を見つめて生かす」ということにコツコツ努力できる人は、
どんな場面でも、「自分が今できること」が分かっているから、自然と志が湧いてくるし、迷うことが少なくなる。
そうやって「自分の持っているものを見つめ続けて、生かす」という基本を忘れない人は、どんな時も生き生きとしているし、
例え肉体が無くなっても、その精神はその人と接した人の中で生き続ける。
◎第34章
大道汎兮、其可左右。萬物恃之而生而不辭。功成而不名有。愛養萬物、而不爲主。常無欲、可名於小。萬物歸焉、而不爲主、可名於大。是以聖人、終不自大、故能成其大。
[書き下し]
大道は氾として、其れ左右す可し。
万物之を恃みて生ずれども辞せず。功成りて名有りとせず。万物を愛養すれども主と為さず。
常に無欲なれば、小と名づく可し。万物之に帰すれども主と為さざれば、名づけて大と為す可し。
是を以て聖人は、終に自ら大とせざるが故に能く其の大を成す。
[意訳]
大道は氾として、其れ左右す可し。
大いなる「タオ」はこの世にあふれていて、あちらこちらに存在する。
万物之を恃みて生ずれども辞せず。功成りて名有りとせず。万物を愛養すれども主と為さず。
全てのものはこの「タオ」から生まれてくるけれど、それを言いふらしたりはしない。
功績があっても、名乗らないし、万物を愛し養っているけれど、「私が主人だ」なんていわない。
常に無欲なれば、小と名づく可し。万物之に帰すれども主と為さざれば、名づけて大と為す可し。
常に無欲であれば、世間では「小者」と思われるかもしれないけど、
全てのものがその人に帰属するのに、「主人である」と言わないような人は、「大物」だと言うべきである。
是を以て聖人は、終に自ら大とせざるが故に能く其の大を成す。
だから、「聖人」と言われるような人は、自分で「私はすごい」なんて言わないし、そんな態度もとらないからこそ
逆に「大きなこと」も達成できる。
[考察]
「タオ」はこの世界に「遍在(すべてに浸透)」していて、万物を生み出しているし、
あらゆる功績があっても名乗らないし、全てを愛し養っているけれど、
「私が主人だ」なんてことは言わない。
それと同じように、人が「タオに生きる」ということは、
この世界の「流れ」に従って生き、その流れる「エネルギー」を借りて色々なことを達成するかもしれないけど、
それをいちいち自慢したり、「私がやった」なんてことは言わない。
そういう余計なことを言えば、疎まれるし、嫉妬されるかもしれないし、反発を生んで、動きにくくなってしまう。
「出る杭は打たれる」けど、「出ない杭は打ちようがない」。
その人があまりに無欲で、何もアピールしなければ、世間では
「あの人は大人しくて何もしてない(ように見える)」と思われて、
「大した人ではない」と言われるかもしれないけど、
本当はそんな人こそ、「偉大な人」と言われるべきである。
「タオを生きる人」というのは、たとえすごいことをしていたとしても、
「この人は凄い人だ」なんて思われもしないからこそ、余計なプレッシャーや、反発を生まないし、
「私が!」なんて思わずに、「タオ」の流れに任せられるので、
「大したことのない人」なのに、「大した人」よりもすごいことを達成したりする。
◎第35章
執大象、天下往。往而不害、安平太。樂與餌、過客止。道之出言、淡乎其無味。視之不足見。聽之不足聞。用之不足既。
[書き下し]
大象を執りて、天下を往けば、往きても害あらず。安、平、大なり。
楽と餌とは過客も止まる。
道の言に出だすは、淡乎として其れ味わい無し。
之を視るも見るに足らず、これを聴くも聞くに足らず。これを用うるも既す可からず。
[意訳]
大象を執りて、天下を往けば、往きても害あらず。安、平、大なり。
「タオの現れ」として世界を生きれば、どこへ行こうと「問題」も無く、安心、平和でおおらかで居られる。
楽と餌とは過客も止まる。
素晴らしい音楽やご馳走があれば、行きかう人も足を止める。
道の言に出だすは、淡乎として其れ味わい無し。
でも、「タオ」のことを言葉にしてみても、派手さが無いから味気ないように感じるだろう。
之を視るも見るに足らず、これを聴くも聞くに足らず。これを用うるも既す可からず。
見ようとしても見えない、聞こうとしても聞こえない。
だけど、これを用いれば、使い切れないほど無尽蔵のエネルギーである。
[考察]
「ビッグバン」で「宇宙」が生まれる前の「塵」のような、
「何者でもない私」、「肩書やプライド、思い込みから解放された私」
として生きることができれば、どんな時も、どんな場所でも、
「その時に必要な私」に適応できるので、問題やストレスを抱えることは無い。
例えば、「私は◎◎の日本一です!」と名乗れば、常に、
「日本一とはどんなもんだろう?見せてもらおう」
「日本一なら、さぞすごいんだろうね」と高い期待をされるので、プレッシャーもすごいし、
常にその座を狙われるから、気が休まる時が無い。
しかし、「何者でもない私」で居れば、誰からも注目されないし、自由に生きることができる。
全ての「ストレス」は「こうでなければいけない!」と自分が決めるから、
その「ルール」「常識」から外れた時、到達できないときに「ストレス」「悩み」を抱える。
だから、あなたが本当に「平安」に「楽しんで」生きたければ、「すごい私になろう」なんて頑張らないことだ。
こんな風に「タオを生きる」ということは、言葉にしてしまうと、
「最高の自分を手に入れて、一生幸せ生活!」とか
「スピリチュアルマスターになって、軽々夢を実現!」なんていう
派手な「ノウハウ」よりも、魅力が無くて、「つまらない」と感じるだろうけど、
「最高の自分」を設定すれば、その「最高の自分」になれていない間はずっと、「ダメの自分」になって、ストレスを感じるし、
「スピリチュアルマスター」になるまで、幸せになれないことにもなってしまう。
「味気ない」ように見える「タオ」だけど、実際にそれを生きてみれば、
「こんなに自由で、力強くて、無尽蔵のエネルギーを使えるのか!」って感動すると思うよ。
◎第36章
將欲歙之、必固張之。將欲弱之、必固強之。將欲廢之、必固興之。將欲奪之、必固與之。是謂微明。柔弱勝剛強。魚不可脱於淵、國之利器、不可以示人。
[書き下し]
将に之を歙めんと欲すれば、必ず固く之を張れ。将に之を弱くせんと欲すれば、必ず固く之を強くせよ。将に之を廃せんと欲すれば、必ず固く之を興せ。将に之を奪わんと欲すれば、必ず固く之を与えよ。
是を微明と謂う。柔弱は剛強に勝つ。
魚は淵より脱す可からず、国の利器は以て人に示す可からず。
[意訳]
将に之を歙めんと欲すれば、必ず固く之を張れ。
もし何かを「縮めたい」と思うなら、しばらくそれを「膨張」させておけばいい。
将に之を弱くせんと欲すれば、必ず固く之を強くせよ。
何かを「弱く」させたければ、しばらくそれを「強く」させておけばいい。
将に之を廃せんと欲すれば、必ず固く之を興せ。
何かを「終わらせたい」と思うなら、しばらくこれを「盛り上げれば」いい。
将に之を奪わんと欲すれば、必ず固く之を与えよ。
何かを「奪い去りたい」と思うなら、しばらく「与えて」あげればいい。
是を微明と謂う。柔弱は剛強に勝つ。
これを「密かな智慧」という。「柔よく剛を制す」ということ。
魚は淵より脱す可からず、国の利器は以て人に示す可からず。
魚は水底に居る方が安全なように、国を治める優れた教えというのは、人にひけらかすものではない。
[考察]
例えば、誰かが「最近すごく筋トレをしているから、俺は強い」と自慢してきたとしても、
そんなハードなトレーニングが長く続かないし、
続いたとしても、筋肉を付ければつけるほど、動きは悪くなって、スタミナも無くなるから、逆に「弱く」なっていく。
だから、放っておけばいいし、逆に「おお!すごい!もっと鍛えて見せてよ!」なんておだてれば、
その人は頑張って、「弱く」なってくれる。
子供が「カップヌードル」が好きで、健康的に良くないからやめさせたい、と思うなら、
逆に、「今日から毎日カップヌードルね」と言って、大量のカップヌードルを渡せば、いつか飽きて、食べなくなる。
何かの「ブーム」「流行」が気に食わなくても、一度盛り上がったものは、いずれすたれていく。
だから、逆にすごく盛り上げれば、それだけ早く終わっていく・・・。
全ては「柔よく剛を制す」。
「力」に「力」で対抗すれば、逆に相手を「頑固」にしてしまい、集団なら「結束」も強くさせてしまう。
「失言」をした芸能人だって、誰かがその人を批判すればするほど、その人のファンは「結束」して、さらにその人を「守ろう」と「強固なファン」になっていく。
ファンじゃなかった人まで、「この人可哀そう」ということで、その人に注目して、もしかしたら新たなファンになるかもしれない。
逆に、誰もその人に注目しなければ、自然と消えていく。
こういう智慧を「微明(密かなる智慧)」と言うんだ。
「タオ」を生き、表面上のことに、いちいち囚われなければ、その本質が見えてくる。
こういう智慧は、みんなが知ると、それを「悪用」する人も出てくるから、
万人に知らせるようなものじゃないけどね。
◎第37章
道常無爲、而無不爲。侯王若能守之、萬物將自化。化而欲作、吾將鎭之以無名之樸。無名之樸、夫亦將無欲。不欲以靜、天下將自定。
[書き下し]
道は常に為すこと無きにして、而も為さざるは無し。侯王若し能く之を守らば、万物将に自から化せんとす。
化して作らんと欲すれば、吾将に之を鎮むるに無名の樸を以てせんとす。
無名の樸は、夫れ亦た将に無欲ならんとす。欲せずして以て静かならば、天下将に自から定まらんとす。
[意訳]
道は常に為すこと無きにして、而も為さざるは無し。
「タオ」は常に、「無為」でありながら、全てのことを成し遂げている。
侯王若し能く之を守らば、万物将に自から化せんとす。
もし、統治者が「タオ」の流れに沿って行くなら、全てのものは勝手に最適な道へと流れていくだろう。
化して作らんと欲すれば、吾将に之を鎮むるに無名の樸を以てせんとす。
もし、誰かが「最適な流れに流してやろう」なんて考えるなら、
私はその考えを諫めるために「何者でもない純朴さを思いだせ」と言うだろう。
[考察]
この世界を見ていると、どんな時でも、季節は巡り、天候は巡り、植物は育ち、はたまた枯れ、生き物は生まれ、はたまた死に、
「タオ」は何もしていないようで、「自然の運行」を為し続けている。
もし、国の統治者や王が、「タオ」に従い、
「無為」つまり、「流れ(タオの摂理)を読んで、流れに沿って生きる」ということができていれば、
全てのものは、自然と「あるべき場所、あるべき姿」になって調和していくだろう。
しかし、そこに「自我」が働いて、「私が、調和の世界を創り出してやろう」なんて言い始めたら、
私は、「自我の罠にはまって、『何ものでもない私』を忘れてませんか?
『私がする』なんて思い始めたら、『タオの流れ』から外れていきますよ。」と言って諫めるだろうね。
それは、「よし、この花の蕾を、私の力で早く咲かせてやろう」と手で掴んで無理矢理開くようなもの。
「花を早く咲かせてやろう」なんて考えない方が良いし、
もしどうしても、咲かせたいなら、温室や暖房器具を使って、「温度」という自然の(タオから生まれた)力を借りて、
促進させるしかない。(だからって、ひたすら高温にすれば良いってものでもない。「タオ(摂理)」に従った方法でないといけない。)
「自力(自我の力)」ではなくて、「他力(タオが生み出してくれている自然の力)」を借りるのが一番スムーズで早いのさ。