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[読んだ本008-1]「Tao 永遠の大河 OSHO老子を語る」考察[1]

☆[読んだ本008]「Tao 永遠の大河 OSHO老子を語る」考察[1] さて、今回は、現在もう新品では手に入らない「Tao 永遠の大河 OSHO老子を語る」について考察したいと思います。 OSHOと言えば、Netflixにドキュメンタリー映画があって、ちょっと「カルト宗教の教祖」的なイメージもあるかもしれませんが、 語っている内容は素晴らしいものばかりです。ですので、先入観なく読んでもらえると良いと思います。 ◎美を美と決めた時 老子は言う 「天下の人が、皆、美を美と知ったとき、 そこから醜さが起こる。 天下の人が皆、善を善と知ったとき、そこから悪が起こる。 つまるところ 有と無は互いに補いあって、成長する」 ======================= まずは、老子が語った言葉ですが、 この世界は「二元性」の世界です。 何かを「これが美しい」ということだと決めると、それと違うものは「醜く」なる。 どうしても何か「比較対象」が無ければ、「美しい」も「醜い」も決められない。 過去に何度も言ってきたように、全ての人が「同じルックス、同じスタイル、同じ性格・・・」であれば、 そこには「美しい」も「醜い」も存在しえない。 だから、「美しい」ものも、それ単体では存在できない。逆の「醜い」ものがなければ、「美しい」と判断できない。 だから、それらは、お互いに「支え合って」存在する。 ◎両方を使うということ 両方を使いなさい。選ばないこと。 生とは相互依存だ。 罪も使ったらいい、それがあるのには目的がある。 さもなければ、そんなものは存在しないはずだ。 怒りも使ったら良い。 それがあるには目的がある。 さもなければ、そんなものは存在しないはずだ。 何者も目的なしに生の中に存在はしない。 どうしてそれが何の目的もなく存在できようか。 ======================= 世の中に何の「罪」も無ければ、「正義(ヒーロ)」も生まれてこない。 「苦」が無ければ、「楽」「快感」を味わうこともできない。 この世界が「ドラマティック」になるためには、「両極」が必要になる。 そうでなければ、毎日何の波も無い、平坦な日常が続くだけ。 もし「死」も無ければ、その平坦な毎日が永遠に続くことになる。 ずっと「真面目」に生きるのも良いけど、たまには「罪なこと」もした方が、 普段の「真面目に生きる」ことがより一層味わえる。 僕も、食べ物には気を付けていて、最近は余り「ジャンクフード」は食べないけど、 「たまには」と思って、ジャンクフードを食べたら、そのあと体が重いし、だるいし、胃腸の調子が悪くなる。 その体験をするから余計に、「ちゃんとしたものを食べよう!」と、その重要さを実感できる。 「真面目」に偏り過ぎないこと。それではこの世界の半分しか味わえない。 ◎ネガティブも受け入れる 老子が言っているのは、 反対は本当に反対なのではなく、補足だと言うことだ。 それらを分けないこと。 区分けは虚構だ。それらは1つなのだ。 それらは互いに依存しあう。 どうして愛が憎しみなしに存在できよう? どうして慈しみが怒りなしに存在できよう? ==================== 極端な話、「暴力」が無ければ、その反対の「愛」「慈しみ」「優しさ」 なども実感することはできない。 テレビで、メキシコの治安の悪い地区の映像を見て、 「ああ、さすがに日本の身近にこんな事件は起きないね。日本は平和でありがたい」と感じられるように、 世の中の「大変なこと」「理不尽なこと」などがあるからこそ、 「この当たり前のような日常がありがたい、幸せなことなんだ」と気づくことができる。 良く、スピリチュアルなどに傾倒し始めると、 「ネガティブを避けないといけない」と思って、「良いこと」ばかりを願い始めるけど、 それでは本当に「ポジティブ」を味わうことはできない。 「人気」「人望」「承認」を得たいなら、逆に「批判」「否定」「中傷」なども覚悟しないといけない。 「大金」を得るなら、「失う」「狙われる」「嫉妬」なども覚悟しないといけない。 それを覚悟してでも、それはどうしても手に入れたいものなのか? もちろん、それを求めて、手に入れるのも良い。 ただ、あなたの人生に「本当に必要なもの」「本当に求めるもの」は何なのか?を明確にすれば、余計な「ネガティブ」を受け入れなくていい。 ◎何ものも「所有」しないこと 自分の子供を愛するのは良い点だが、彼らを所有しないこと。 自分の奥さんや旦那さんを愛するがいい。 ただし彼らを所有しないこと。 あなたが所有したその瞬間、奥深いところで、あなたも所有されてしまっている。 あなたが所有したその瞬間、あなたも所有されてしまっているのだ。 所有者が同時に被所有者なのだ。所有しないこと。 ======================== 何かを「手に入れる」と、それによって得られるものがある半面、 例えば、何かを手に持っていれば、行動が制限されるように、 精神的な意味でも、「私の夫、私の妻、私の子・・・」という風に、 「私の」になってしまった時点で、「私」の基準でその人を判断し始めてしまう。 「結婚したんだからこうするべき」「夫とは、妻とはこうあるべき」 「子供は勉強することが仕事であるべき」・・・ という風に勝手に「私」の基準ですべてを見始めて、 「それは良いこと」「それは悪いこと」という風に判断し始める。 そして、人にそうやって判断を持ち込み、「こうあるべき」と思い始めれば、 自分もそうでなければいけなくなるので、勝手に色々な制限を掛け始める。 相手に、「もっと頑張らないと!」と言った以上は、自分も「もっと頑張らないと」になっていく。 そして、そうやって自分が頑張るから、相手も頑張ってくれないと許せなくなる・・・。 という風に、「所有」してしまうことで、お互いにその人本来の生き方を制限して、「我慢合戦」のようになってしまう。 「所有」することは、同時に相手にも「所有」されることになる。 お互いに、「相手をコントロール」し続けなければいけなくなる。 逆に、「相手のありのまま」で居させてあげられるようになると、 お互いに頑張り合わなくて良いし、意外とそうなってみると、お互いに心が離れて行かないし、 逆に「こんなに楽で自分で居させてくれる人を手放したくない」という気持ちが湧いて、離れて行かない。 「相手を手放すことで、相手が離れない」ということが起こってくる。 これは、人間関係だけではなくて、全てにおいてそう。 「求めない」「執着しない」ことによって、それが自然と入ってくるようになっていく。 ◎手柄を主張しない 「彼は行い、しかも、着服しない。 成して、しかも、何一つ手柄を主張しない。 何も手柄を主張しないからこそ、 その手柄は、彼から奪いさられ得ないのだ。」 もし、あなたが、世の中で「誰かさん(somebody)」で居ようとしたら、 多分反対に、あなたが「誰でもない人(Nobody)」であることが証明され得る。 それは必ず証明されるに違いない。 だがもしあなたが主張せず、誰でもない人のままでいたら、どうしてそれが反証され得る? あなたは誰でもないことにおいて、あなたは誰かさんになる。 そしてそれは誰にも反証できないし、誰もそれと競争もできない。 もし勝ち誇ろうとしたら、あなたは言い負かされるだろう。 主張しないこと。そうすれば、あなたの主張は完全に満たされる。 勝ち誇ろうとしないこと、そうすれば、あなたの勝利は絶対だ。 頑張らないこと、ただいるのだ。そうすれば、頑張ってやれるような事は皆 自分からひとりでにあなたところにやってくるだろう。 […]

[読んだ本7-1]「神との対話3」ニール・ドナルド・ウォルシュ 考察[1]

☆[読んだ本7-1]「神との対話3」ニール・ドナルド・ウォルシュ 考察[1] さて、最近すっかり「神との対話」シリーズをガッツリ読んでますが、 「神との対話2」も面白かったんですが、ちょっと政治とか教育的な内容が多くて、 このオンラインサロンで語るようなことでもないかな?という感じもしたので、 今回は「神との対話3」の言葉からの「考察」を書いてみたいと思います。 ◎あなたは誰の物? 他人にどう思われるかを心配している限り、あなたは他人のものだ。外からの承認を求める必要がなくなったとき、初めて、あなたはあなた自身のものになる。 ============= 私たちは無意識のうちに、子供のころから習慣で、 「誰かの承認を得る」ということを目指してしまう。 それはあなたが悪いとか、親が悪いとかではなくて、 誰しも、赤ちゃんの頃から、「◎◎ちゃん」「◎◎ちゃんは静かで偉いねえ」 「◎◎ちゃんは勉強は得意だけど、運動はダメねえ」・・・ という風に、「私」というものを「外からの情報」で知っていく。 だから、人生の前半は誰しも「人からの言葉、外からの評価」というものを「私」と思いこんで生きている。 だから、「誰かに認められる」ということでしか、「私」を確認する方法を知らない。 あなたを育てた両親も、まだそれを知らずにいる人も多い。 そこから、「あれ?私って本当はもっとこういうことが好き」 「私って、もっとこういう能力を持っているかも」と気づいていく。 その「本当の私」「私の性質」というものを知っていって、初めて「自分の人生」を生き始める。 そういう意味も含めて、昔から40代を「不惑」、つまり、やっと40歳くらいから、 「私」に迷わずに、周りに惑わされずに人生を生きることができるようになっていく。 ◎教師が完璧である必要はない あなたは自分が学ばなければならないことを教えるのだ。 完璧さについて語るのに、必ずしも完璧に語る必要は無い。 マスターについて語るひとが、必ずしもマスターである必要は無い。 最高レベルの成長を語るのに、必ずしも最高のレベルの成長を遂げている必要は無い。 ただ真実であろうと心がけなさい。真摯であろうと努めなさい。 過去に与えたと思ういろいろな被害を償いたいなら、行動で示しなさい。 できることをしなさい。そして後は忘れなさい。 ================= 世の中には色々な「教師」が居て、スピリチュアルでも、 色々な「マスター」が居るけど、誰一人として「完璧」な人は居ない。 特に本当に「目覚めた」人は意外と「自由奔放」で「聖人君子」なんかじゃない。 それは、ただ「私」を知っているだけ。 「私はこれが得意で、これが嫌いで、この世界にこういう役割をするように生まれてきたんだな」 ということを理解して、その通りに生きているだけ。 その「教え」が誰にとっても「完璧」である必要はない。 その「教え」に共感できる人が居て、何らかの「救い」を与えられるなら、それでいい。 極端なことを言えば、誰も共感できなくても、その人にとっては「真理」であればいい。 映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のモデルにもなった、「天才詐欺師」のフランク・アバグネイル。 彼が、学校の教師(教員助手)として、誰にもバレずにいれた秘密を聞かれたときに、 「ただ、生徒たちより、1ページ先を知っていればよかった」と語ったように、 あなたが教えるのに、その分野を「完璧に知っている」必要はないのです。 もちろん、できるだけたくさんの知識を持って、どんな質問をされても即座に答えられれば最高ですが、 「生徒より、少し先を進んでいる」だけでいいのです。 何かを教えるときに、「完璧になってから」と言っていては、いつまでも教えるときは来ないでしょう。 まず教え始めれば、そのレベルに合った生徒が現れるものです。 ◎罪悪感は毒 人間の唯一の敵は、罪悪感と不安だよ。 罪悪感は畑を枯らす病気だ。植物を殺してしまう毒だよ。罪悪感を抱いても成長はしない。ただしなびて死ぬだけだ。 あなたが求めているのは気づくことだ。気づく事と罪悪感は違う。愛と不安と違うように。愛と気づきこれが真の友だ。混同してはいけない。 ================= 先ほども書いたように、私たちはどうしても基本的に、 特に両親からの「言葉」「思い」によって、「私」というものを創り上げていく。 「親(周り)の言うとおりにしておかないと、仲間外れになってしまう・・・」という恐怖感から、 「周りに合わせられない私はダメな人だ」という「罪悪感」を感じてしまいがち。 しかし、それはただ単に、「本当の私」と「周りから作り上げられた私」が違うということだけ。 あなたはあなたの奥から湧いてくる「衝動」「欲求」に従えばいい。 何かを埋めたり、誰かに気に入られるためではなくて、 ただ単に、「やってみたい」「感じてみたい」ということを何の罪悪感もなく、やってみたらいい。 「罪悪感」を感じないため、埋めるために頑張るのではなくて、 あなたの奥から湧いてくる「本当の私」に「気づく」ことが大切。 ◎「神」と本当につながる方法! 神を恐れなくなった時、初めて、あなたは、私と意味のある関係を築くことができる。 あなたへの贈り物、特別の恵みがあるとしたら、私を発見させることだ。その時恐れはなくなる。 恐れぬものは幸せだ。なぜなら恐れぬものは神を知る。 恐れを捨て、神についての知識はどうでも良いと考える。 恐れを捨て、神について人から教えられたことからも外れてもいいと思う。 恐れを捨て、自分なりに神を体験しようとする。 それについて、罪悪感を抱く必要は無い。自分なりの経験が、人から教えられた事と違っていても、 罪悪感を抱く事は無い。不安と罪悪感、これは人間の唯一の敵だ。 ================= 「神」は決して、あなたの「罰、バチ」を与えたりしない。 私たちは「神」の「子」であり、100%自由に、「あなたらしく生きること」を望まれている存在だから。 あなたが思う「神」のイメージは、きっと「両親」や「社会」のルールでしかない。 僕がもし、「スマホを触っていると、霊的なエネルギーがどんどん減っていきます」と一言言ったら、 あなたが次からスマホを触る時にちょっと気になるように、 子供のころから両親に言われてきたこと、周りの友人が言ってきたことなどが、 心のどこかに残っていて、それが「神のルール」のように、あなたに残り続けているだけ。 そんなものに縛られている必要はない。 あなたが心から望むことを意識して、それを形にしていく事だけを考えればいい。 世の中で語られている「神」はすべて、人間が自分たちの都合の良いように解釈した「妄想」でしかないから。 唯一のルールは、「あなたの人生はあなたが思っていることが、現実になっている」ということだけ。 「私はこんなもの」と思えば、「こんなもの」な人生が。 「私は素晴らしい」と信じれば、「素晴らしい」人生が。 それだけ。「神を知る」とは「私が何者かを知る」ということだけ。 ◎あなたは常に「神と一体」である証拠 私があなたと共にいない時などない。一瞬たりとも、私の準備ができていない時などない。 私は常にあなたと共にいる。時の終わりまで。 しかし決して私の意思をあなたに押し付けはしない。 私はあなたのために最高の善を選ぶが、それ以上にあなたの意思を尊重する。 愛は自らのためには何も望まない。ただ、愛するものの望みが実現するよう願うだけだ。 ================= 僕も過去に何度も書いてきたように、 私たちはどう考えても、常に「神」と繋がっていなければ、「神」としか言えないような「エネルギー」と繋がっていなければ、 こんな風に生きているはずがない。 これだけ科学が発達しても、タンパク質だけでこんなにずっと動いたり、考えたりできるロボットを創れるひとは居ない。 動物や恐竜なんかも居れれば、そんな存在が何万年、何億年前から存在している。 やはり、私たちが生きるには「神」は不可欠。 そして、もし、その「神」がずっと、あなたの人生につきまとって、 「こうしたほうが良いって」「ああ、それしちゃダメだよ!」って言って来たら 鬱陶しいはずw 本当の「愛」は常に「見守る」ということ。 まずは自分に対して、「期待」するのではなく、「信じて見守る」ということ。 あなた自身の本当の望みを理解して、それに向けて、環境を整えていくということ。 ◎他者は存在しない 人が、人間関係で犯す最大の過ちは、相手が何を望んでいるか、何者なのか、何をしているか、 何を持っているかを心配することだ。 そうではなく、考えるべき事は、自分は何者なのか、何をし、何を持っているのか? […]

[読んだ本006-1]「真・かんながら」阿部敏郎 考察[1]

☆[読んだ本006-1]「真・かんながら」阿部敏郎 考察[1] さて今回は、「悟り」系の本で、阿部敏郎さんの「真・かんながら」をレビュー考察したいと思います。 この本は、著者である阿部敏郎さんの半生の半ドキュメンタリー?半小説的な物語で、 「A」さんが音楽業界で仕事をしていたところから、「一瞥体験」を経て、「天河神社」との奇妙な縁。 突然インドへ旅立つことになったことから・・・「目覚め」を迎え、「本当の自分(神の意識?)」との対話をします。 最後の方のその「本当の自分との対話」から、「A」さんが取材に来た記者との会話の中で語ったことが、非情に良かったので、抜粋して、考察したいと思います。 ◎「物語」の中を生きる 今にいるかそれとも今以外にいるか、可能性は2つしかない。 今以外とは思考が作り出す世界のことであり、たとえ人類を救済する内容だとしても、それはマインドの物語に過ぎない。 あらゆる人は、無意識に物語の世界を生きてしまう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私たちは、「今を生きている」と思いこんでいるけれど、 例えば、目の前で「誰かがしゃべっている」という「現実」を見ていても、 無意識のうちに「この人こんな髪型だったっけ?この人この話好きねえ。この人はあの人よりも賢いな・・・」 という感じで、自分の中の「過去のデータ」と比較したり、判断しながら話を聞いている。 そしてその話の内容に対しても、「それはあまり聞きたくない。なんか私のこと批判してる?・・・」という感じで、 純粋に「今」を体験していない。 一度「自分・私」というフィルターを通して、世界を見ている。 分かりやすい例で言うと、自分の子供や親せきのお子さんを見るとき、もう20歳になっても、 子供の頃のようなイメージでその子を見るので、 「この子、こんな大人なこと言うようになったの?」とビックリするような。 つまり、そういう「比較・判断」をしているときは、「今」を見ているのではなく、 「過去と比較した今」という「物語」を見ている。 それを「今」を「直接体験」していない。と言われる。 ◎「世界」は一つではない。 その世界は1人ずつの創作であり、同じものは2つとしてない。 なのに人々は、みんなが同じ世界に住んでいると思っている。だから、毎日のように関係に軋轢が生じるのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 先ほどのように私たちはみんな、漏れなく「私」というフィルターを通してしか世界を見ていない。 だから、過去の話をした時に、人が言っている「あの時の話」が 「え?そんなことあったっけ?」と「記憶違い」が起こってくる。 でも、それはその人にとっては「真実」であり「正しい記憶」だけど、 誰しもが、その「起こったこと」に「イメージ」「気持ち」「思考」などを重ねて、 「あの人なら、こんなことを言ったに違いない」「私は批判されたんだ」という感じで 「記憶」というものを創り上げるから、それぞれの「オリジナルストーリー」になっていく。 だから、なかなか分かり合えない。 しかし、「そういうものだ」ということを理解しておけば、「誰が何を言っていようと、私には何の関係もない」と囚われない生き方ができる。 ◎人は「世界」を固定する 人が作った世界には、見えるすべてのものに名前が付いていて、これはこうで、あれはこうだと言う自分なりの判断が下されている。そうやって作った世界は、表面的に動き続けてはいるが、その世界を構成する要素は固定されたままだ。 世界を構成する要素とは、例えば、自分を含めた登場人物のキャラ、善悪の基準、何が重要かの価値観、起きていることへの解釈などだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー これが、僕が今までにも書いたことのある、「なぜかいつも同じ役割になる」ということが起こる原因。 小学校から中学校、高校と上がっていっても、いつも「Aさん(に似たタイプの人)」が居て、「Bさん(に似たタイプの人)」がいて、 いつの間にか、自分がその間を取り持つ役割になっていたり、いつも遠慮して、自分のことを主張できない立場になっていったり・・・ 環境を変えれば、違う自分になれると思ったのに、場所を変えても同じだった・・・みたいな。 それは、自分自身の中の「思い込み」が強いだけ。 家族の中や、小学校の中で、「自分勝手な人(Aさん)」が居たり「引っ込み思案の人(Bさん)」が居て、その中で「自分」という立場を見出していく。 すると、違う環境になっても、無意識のうちに「ああ、この人はAさんタイプの人ね」「この人はBさんぽい」と「カテゴライズ」することで安心する。 そのために、人が変わろうが、場所が変わろうが「同じような人」が揃っていく。 これが「表面的に動き続けてはいるが、その世界を構成する要素は固定されたままだ。」 ということ。 しかし、「現実」という者は、常に変化していっている。 「川」が例えば、「長良川」が目の前に流れている。すると人は「目の前に長良川が流れている」と言うが、 その「長良川」は常に「さっきとは違う水」が流れている。 つまり、常に「長良川」は変化し続けているけど、「岐阜県のここに在る川は長良川だ」と固定して見ている。 「Aさん」だって、その瞬間その瞬間に「違う人」と言ってもいいくらい変化しているかもしれないのに、 「Aさんはこういう人」と決めることで、純粋に「Aさん」を見れなくなっていく。 ただ単に、「Aさん」が時によっていうことが変化しているだけなのに、 「Aさんらしくない」「なんか裏があるんじゃ?」「きっと皮肉なんでしょ」と勝手な「判断」で見てしまう。 そして、「Aさんに苦労する日々」を生き始めてしまう。 ◎真理は「今生まれている」 しかし、真理は今、まさに新しく生まれ続けていて、何一つ固定されたものはなく、名前をつけられるものもない。名前をつけると言うのは、それを固定したと言うことだ。人は、皆、そのように、自分で決めつけた世界に住んでいるのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー これはなかなか信じられない概念かもしれませんが、 「現実」は「いま、まさに新しく生まれ続けている」ということ。 例えば、「同じ人が同じように頑張っても、成功する時も成功しないときもある」 という風に、実は「原因と結果の法則」が成り立たない場合もあるし、成り立つときもある。 この世界は私たちが想像できないような膨大な「縁」「関係性」「影響」などが重なり合って、「ことが起こっている」。 例えば、「新型コロナ騒動」というもの。これは「誰かが何かをしたから起こった」ことなんだろうか? もちろん世の中には「アメリカの製薬会社の陰謀で」「中国の陰謀で」・・・という話をする人もいるけど、 それだとしても、「じゃあなぜ、そのアメリカの製薬会社はそんなことをしようと思ったのか?」 「なぜお金を儲けるためにそんなことを?」「アメリカの経済がヤバいから」 「じゃあ、なんでそんな風にヤバくなったの?アメリカ人が悪いことをしたから?」・・・ という風に、「原因」を探ろうとしても、キリが無いし、「AをしたからBになる」という単純なものではない。 それならば、みんなが同じことをして、同じ結果を出して、みんな「豊かで幸せ」になっているはず? ここから書くことは、実証できないし、信じられない話かもしれないけど、 常に「現実」は「今この瞬間」に新しく生まれていて、その何の関連性もない出来事を、 私たちの「脳」が勝手につなぎ合わせて、「ストーリー」を作っていっているだけだとしたら? 川の上流から、「柿」が流れてきた。しばらくして、「穴の開いた服」が流れ来た。 「まさか、誰かが柿を投げて、服に穴をあけた!?」と「ストーリー」を創り上げる。 しかし、真実は、上流に柿の木があって、熟した実が川に落ちた。ちょうど同じころ、服が破れたから川に服を捨てた人が居た だけかもしれない。 私たちは、「上流(未来)」から流れてくる「出来事(物)」を勝手に結び付けて、「過去」の経験や情報を参照して、 「これが起こったのは、これが原因だ」と言っているだけかもしれない。 だから、あなたの人生に「それ」が起こっているのは、あなたの責任ではないし、あなたの価値や、素晴らしさとは何の関連性もない。 逆に言えば、例えば「失恋」があったとする。 多くの人は、「私があんなことを言ったから」「私が魅力的ではないから」と、「過去」や「思い込み」に「原因」を見出そうとする。 しかし、それが、「次に出逢う人と最高の恋をするため」に起こったとしたら? 「未来」が原因で、その「未来」に進むために「いま」が起こったとしたら? 「いま」の意味が全く変わってきませんか? ◎すべてが必要 目覚めたときに人が知るのは、それまでの人生に起きたあらゆる事は、何一つ、無駄もなく、偶然もないと言うことだ。 ありとあらゆる事は、人類の目覚めのために起きている。 そしてその目覚めを先導するのが日本に暮らす民であり、さらにその民を先導するには完全に目覚めた者たちが必要だ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー これは色々な「悟りを開いた」とされる人や、「臨死体験」をした方の話などを読むと、みんな、 「この気づきを得るためには、今までの全てが必要だった」 「今までの出来事がなければ、私はこの場所に来ることはなかった」 という風に、「全てが導かれていたとしか言えない」ということをおっしゃってます。 「苦しみ」を知らなければ、苦しんでいる人に同情して、「やさしさ」「救い」を手渡そうとは思えない。 「悲しみ」を知らなければ、本当の「喜び」も「当たり前のありがたさ」にも気づけない。 現状のあなたにどんな「現実」が現れているように見えるとしても、 それこそが、あなたにとって一番効果的に「自分(の素晴らしさ)」に気づくための「演出」だとしたら? そして、この本もそうだし、過去の「神秘家」「覚者」が揃って「日本」に対して発言している。 「予言書」と言われる「日月神示」でも、この本(真・かんながら)に書かれている「OSHO」にしても、 これからの時代の「目覚め」のために、「日本の生まれ変わり(復興)」が重要な役割を果たすという。 そして、そのためには、この本のもっと後に書かれているけど、 まず、あなたが「目覚める」こと。 「過去」や「思い込み」や「ストーリー」にとらわれずに、 全ての瞬間で、「これは未来のために必要なことが起こっている。」 […]