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☆[サイド101]「老子道徳経」考察まとめ1 さてここまで「老子道徳経 全81章」を超訳+考察してきましたが、 締めくくりとして、「老子道徳経」に書かれていたポイントを私たちの生活の中で生かせるように、僕なりにまとめておきます。 ◎「タオ」とは? さて「老子道徳経」は、「道(タオ)」とそれにまつわる「徳」について、解説されています。 その「タオ」とは、最初の方に書かれているように「それは言葉では言い表せない」ことであり、 この世界の「生まれる源」であり、「摂理・法則」であり、「エネルギーの流れ」のようなものでもある。 「老子道徳経」の中には、その関係性などが詳しく解説されているわけではないので、あくまで僕の解釈だが、 「玄の玄」がいわゆる「神(大いなる存在)」と呼ばれるようなもので、「神」として良く描かれるような髭のおじさんのような姿を持っているわけではなく、純粋な「意識・意志」のような存在? 「玄」はその「神」が創り出した「場」。ステージのようなもの。「タオ」はこのステージの中に満ちている「エネルギー(塵)」であり「摂理・法則」。 そのステージ上に、「神」からの「意志」みたいなものが流れてきて、「タオ」を通して、その「摂理・法則」に従ってエネルギー(縁)が働き、万物がかたどられ、「妙」つまりステージ上の「演劇」が始まる。 そして、そのステージ上の「演劇(妙)」を見ている観客が私たち「個人の意識」であり、その「個人」がそれぞれの「概念」のフィルターを通して、 「演劇」を見ながら感じる「感情」や「ストーリー」が「徼」である。 「タオ」は「純粋なエネルギー」であり、「摂理・法則」であるから、そこに「意志」は無く、 「玄の玄」から送られてきた「意志」をそのまま「摂理・法則」を通して、ステージ上に現出させているだけ。 だから、時にやさしく、時に残酷なほど冷酷でもあるように感じる。 しかし、これだけ科学や医学が発達した世の中でも、いまだに解明されていない、 「命はどこにあって、どんな作用で、この肉体を100年近く動かし続けるのか?」という不思議。 科学の「か」の字も無いような頃から、多種多様の生物が生まれ、進化して人類が生まれてきたという事実。 それは、「タオ」と言われるような壮大な「何か」が存在して、そこから常に何らかの「エネルギー」が送られ続けていて、 こんな風に生きて、動いて、考えたりできる。としか言いようがない。 ◎この世界の成り立ち そして、その「タオ」を通して、「陰」と「陽」という「両極」が生まれ、そのことによって、その「中間」つまり、 「限りなく陰」~「陰寄りの中間」~「中間寄りの陰」~「中間」~「中間寄りの陽」~「陽寄りの中間」~「限りなく陽」 という「空間」ができ、その中で「陰と陽のバランス」によって、「万物」が生み出されていった。 そこに私たち「個人の意識」が生み出され、それぞれを見て「これは山」「これは川」という風に「名前」を付け、「分類」「分別」していった。 だから「万物」はそれを捉える「意識」が「分別」することによって生まれてくるもの。 よく「スピリチュアル」や「悟り」系の話で、「この世界は幻想である」というのは、こういうこと。 全ては常に移り変わっていく「風景」のようなものだけど、それに便宜上「名前」を付けたから、それが「存在する」ように思うけど、 たとえば、よく言われるように、私たちの身体は、常に「新陳代謝」が起こっていて、 部分にもよるが、「約7年ですべての細胞が入れ替わる」と言われていて、しかも、見た目も年を重ねるごとに変わっていく。 果たして、1歳の時の自分と、40歳の時の自分は「同じ人間」と言えるのだろうか? その「常に入れ替わっていく体」に「山田太郎」と名付けるから、「山田君が居る」となるが、 それは今、「砂場の砂」が盛り上がったところに、「山田君」と名付けてみても、次の日には、もう「山田君」は消えているかもしれないし、 「形は変わっても、この場所が山田君だ」と決めれば、山田君は居るのかもしれない・・・。 つまり、この世界全体がそうで、常に「移り変わりゆくもの」に、一時的に「思い込み(名前)」を付与することで、「それがある」と感じている。 それと同じように、全てはその人の「思い込み」によって成立しているものだから、その「思い込み」を変えてしまえば、 全く解釈も変わって、同じことが起こっても、全然違うとらえ方ができる。 そして、違うとらえ方が出来れば、違う解決法も活用法も見えてくる。 だから、この世界は、「常にあなたの思い通り」とも言われる。 「老子」が繰り返し、「聖人は『こういう人』だと言えない」とか「知識を持つな」というのはそういうこと。 「この人はこういう人」とか「こういう場合はこういうことになる」と「知識」や「思い込み」で決めてしまえば、 次から、「そのように」しか見えなくなってしまって、新しい見方ができなくなる。 (逆に「山田君」が昨日とは態度が違ったりすると、「山田君らしくない」なんて言うけど、「山田君」はそもそも、「毎日変化するもの」だから、 ただ単に「自分の解釈と今日の山田君が違う」ということでしかない。) そうすると、本当は「昨日とは全く違う」ことが目の前に広がっていても、「ああ、この場所は知ってるから、どうせこうでしょ」と決めつけて、ちゃんと見ようとしない。 「タオ」からの「あなたが最高の人生を生きるヒント」が流れてきても、それを見逃してしまう。 だから「悟りを開いた」とされる人は、「今を生きよ」と口を揃えて言う。 ◎この世界は「比較」「対照」の世界である そしてこの世界は「高い」があるから「低い」が生まれ、「低い」があるから「高い」が生まれる。 「良いもの」を決めればそれと比較して「悪いもの」も生まれ、 逆に言えば、「比較対象」が無ければ、何も生まれない。 この世界が真っ暗闇であれば、何も確認できないし、光だけで真っ白で何の影も無い世界であっても、何も確認できない。 「闇」と「光」がセットで存在しなければ、何も生まれず、確認できない。 だから、「闇」も「光」も消すことはできない(必要)。 誰かが「正義」を振りかざすためには「悪」が必要になる。 だから「良い」も「悪い」も、絶対的に「良い」「悪い」も無くて、 「こういうルールにしましょう」と決めた時から、それから外れれば「悪」になり、その範囲内であれば「良い」となっているだけ。 動物の世界であれば、「弱そうな子供を狙って襲い掛かって、食べる」というのは「生きるために必要で当たり前のこと」だけど、 人間界でそれをやれば、「猟奇的なサイコパス殺人者」になる。 (もちろん、そういう人が悪くないと言ってるわけではなく) 全てのことは、私たちの「ルール」と比較して「良い」「悪い」を決めていることだから、 そこに必要以上に「憎む」「恨み」「怒り」などを感じなくて良いし、 逆に「良い」とされることを必要以上に賛美したり、推奨することも正しいかどうか分からない。 (強い「思い」「感情」を持ち続けていれば、本人がその「エネルギー」に影響されて、 その発散するエネルギーに相応しい「現実」を受け取ることになる。) たとえ、あなたが「世間の常識」からしたら「ダメな人」だと思えたとしても、それは、社会の中で勝手に決められた基準から外れているだけで、 あなたが「ダメな人」でもなければ、「直すべきこと」でもない。 「比較」によって、苦悩を持ち続ける必要もない。 ◎「思い込み」「こだわり」が苦しみを生む そして、これも「老子道徳経」の中で繰り返し書かれていることで、 「聖人は功績を上げても誇らない、地位にもこだわらない」ということ。 勿論何かを達成したり、功績をあげたら喜べばいいし、「私ってすごい」と思うことは自由だが、 それを「◎◎を達成した私」「常に美しい私」という風に誇って「持ち歩き」始めると、 それが同時に「苦悩」になっていく。 「地位に恥じぬように常に結果を出さねば」「私は常に美しくあらねばならない」 という風に、「◎◎な私」を守らなければならなくなる。 そうなると、年齢を重ねていくうちに「できなくなること」や「老化」なども「敵」になってくるし、 「人からどう見られているか?」という感じで、「プライド」を守るために無駄な労力を消耗しつづけることになる。 だから、老子はそれらの「功績、地位、名前・・・」などに拘らず、常にその場その場で「私ができる精一杯」をして、「結果に拘らない」ことが、 逆に、周りからも認められて、疎んじられることが無いと。 これは単純に「自慢」したり「地位に執着」したりするような人は、見ていても気持ちのいいものではないし、 「それだけ自慢するなら、自分の力でやってよ」と思われたりもする。一人でできることはたかが知れているから、結果的に大した結果は出せない。 また、「自慢」「執着」しなければいけない、ということは、その人の裏の心理では、「私は功績や肩書で埋めていないと、価値が無い」ということが見えるので、 その「裏の心理」通りの「(不足の)現実」が見えるようになる。すると、益々、功績や地位に執着しないといけないように見えてくる。「負のループ」。 だから「思い込み」や「こだわり」を手放した方が良い。 常に「何者でもない私」で居続け、その時その時に自分ができること、したいことを精一杯やるということ。 これこそが、「私を持たずに、無為で居る」ということ。 ◎「私」が居なければうまくいく この「無為自然」や「私はいない」ということは、老子だけでなく、古今東西の「悟りを開いた人(覚者)」は口を揃えて言う。 私たちは、「個人」を感じるために、「自我」というシステムを通してこの世界を見ている。 そうでなければ、すべてが「ワンネス」であるから、「自分の右手と左手でじゃんけん」するがごとく、「結果も分かって、おもしろくもなんともない」。 そのために「ワンネス」であることを忘れ、「私とあの人は別」と感じられる「自我」というシステムが必要になる。 しかし、その「自我」は常に、そうやって「私とあの人」という「分離」を生み出すためのシステムで、 その「分離」を強めるためには、「私とあの人は全然違う!」という「差異」が大きい方が都合がいい。 出来れば「敵対」してるくらいの方が、「いやいや!私とあの人は全然違う!!」と感じれば、 まさか「私とあの人が同じ」、「ワンネス」であるなんて思えない。思いたくない。 その方が「ストーリー」をたくさん生み出すには都合がいい。 だから、「覚者」たちは、「私を手放せ」「私という錯覚を見抜け」という。 常に「私(自我による錯覚)」が、「あの人」との「対立」「分離」を生み出すことによって、 「スムーズに人生が展開する」ことを邪魔するから。 あの「OSHO」も「竹のように空になれば、あなたが努力で成し得るようなことは、勝手に達成される」という風に言っている。 常に「空」でありつづけ、「私の頭」であれこれ考えず、目の前に現れたこと、自分の中に湧いてきた衝動に従い続ける。これこそ「無為」。 ◎そもそも「私」とは そもそも「私」というものは、生まれてから今まで、 両親や友人などの「周りの人達」から、「◎◎君」「◎◎ちゃん」と呼ばれ続け、 「◎◎君は足が速いね」「◎◎ちゃんは勉強が得意ね」という感じで、「評価」され続けてきて、 「ああ、僕は足が速いのか」「ああ、私は勉強ができるのね」という感じで、 すべて、「他人や環境からの評価」によって出来上がっていく。 これが、全く真っ白や真っ黒の世界で、たった一人きりであれば、「こういうものが私です」と認識できるだろうか? […]
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