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[読んだ本008-1]「Tao 永遠の大河 OSHO老子を語る」考察[1]

☆[読んだ本008]「Tao 永遠の大河 OSHO老子を語る」考察[1] さて、今回は、現在もう新品では手に入らない「Tao 永遠の大河 OSHO老子を語る」について考察したいと思います。 OSHOと言えば、Netflixにドキュメンタリー映画があって、ちょっと「カルト宗教の教祖」的なイメージもあるかもしれませんが、 語っている内容は素晴らしいものばかりです。ですので、先入観なく読んでもらえると良いと思います。 ◎美を美と決めた時 老子は言う 「天下の人が、皆、美を美と知ったとき、 そこから醜さが起こる。 天下の人が皆、善を善と知ったとき、そこから悪が起こる。 つまるところ 有と無は互いに補いあって、成長する」 ======================= まずは、老子が語った言葉ですが、 この世界は「二元性」の世界です。 何かを「これが美しい」ということだと決めると、それと違うものは「醜く」なる。 どうしても何か「比較対象」が無ければ、「美しい」も「醜い」も決められない。 過去に何度も言ってきたように、全ての人が「同じルックス、同じスタイル、同じ性格・・・」であれば、 そこには「美しい」も「醜い」も存在しえない。 だから、「美しい」ものも、それ単体では存在できない。逆の「醜い」ものがなければ、「美しい」と判断できない。 だから、それらは、お互いに「支え合って」存在する。 ◎両方を使うということ 両方を使いなさい。選ばないこと。 生とは相互依存だ。 罪も使ったらいい、それがあるのには目的がある。 さもなければ、そんなものは存在しないはずだ。 怒りも使ったら良い。 それがあるには目的がある。 さもなければ、そんなものは存在しないはずだ。 何者も目的なしに生の中に存在はしない。 どうしてそれが何の目的もなく存在できようか。 ======================= 世の中に何の「罪」も無ければ、「正義(ヒーロ)」も生まれてこない。 「苦」が無ければ、「楽」「快感」を味わうこともできない。 この世界が「ドラマティック」になるためには、「両極」が必要になる。 そうでなければ、毎日何の波も無い、平坦な日常が続くだけ。 もし「死」も無ければ、その平坦な毎日が永遠に続くことになる。 ずっと「真面目」に生きるのも良いけど、たまには「罪なこと」もした方が、 普段の「真面目に生きる」ことがより一層味わえる。 僕も、食べ物には気を付けていて、最近は余り「ジャンクフード」は食べないけど、 「たまには」と思って、ジャンクフードを食べたら、そのあと体が重いし、だるいし、胃腸の調子が悪くなる。 その体験をするから余計に、「ちゃんとしたものを食べよう!」と、その重要さを実感できる。 「真面目」に偏り過ぎないこと。それではこの世界の半分しか味わえない。 ◎ネガティブも受け入れる 老子が言っているのは、 反対は本当に反対なのではなく、補足だと言うことだ。 それらを分けないこと。 区分けは虚構だ。それらは1つなのだ。 それらは互いに依存しあう。 どうして愛が憎しみなしに存在できよう? どうして慈しみが怒りなしに存在できよう? ==================== 極端な話、「暴力」が無ければ、その反対の「愛」「慈しみ」「優しさ」 なども実感することはできない。 テレビで、メキシコの治安の悪い地区の映像を見て、 「ああ、さすがに日本の身近にこんな事件は起きないね。日本は平和でありがたい」と感じられるように、 世の中の「大変なこと」「理不尽なこと」などがあるからこそ、 「この当たり前のような日常がありがたい、幸せなことなんだ」と気づくことができる。 良く、スピリチュアルなどに傾倒し始めると、 「ネガティブを避けないといけない」と思って、「良いこと」ばかりを願い始めるけど、 それでは本当に「ポジティブ」を味わうことはできない。 「人気」「人望」「承認」を得たいなら、逆に「批判」「否定」「中傷」なども覚悟しないといけない。 「大金」を得るなら、「失う」「狙われる」「嫉妬」なども覚悟しないといけない。 それを覚悟してでも、それはどうしても手に入れたいものなのか? もちろん、それを求めて、手に入れるのも良い。 ただ、あなたの人生に「本当に必要なもの」「本当に求めるもの」は何なのか?を明確にすれば、余計な「ネガティブ」を受け入れなくていい。 ◎何ものも「所有」しないこと 自分の子供を愛するのは良い点だが、彼らを所有しないこと。 自分の奥さんや旦那さんを愛するがいい。 ただし彼らを所有しないこと。 あなたが所有したその瞬間、奥深いところで、あなたも所有されてしまっている。 あなたが所有したその瞬間、あなたも所有されてしまっているのだ。 所有者が同時に被所有者なのだ。所有しないこと。 ======================== 何かを「手に入れる」と、それによって得られるものがある半面、 例えば、何かを手に持っていれば、行動が制限されるように、 精神的な意味でも、「私の夫、私の妻、私の子・・・」という風に、 「私の」になってしまった時点で、「私」の基準でその人を判断し始めてしまう。 「結婚したんだからこうするべき」「夫とは、妻とはこうあるべき」 「子供は勉強することが仕事であるべき」・・・ という風に勝手に「私」の基準ですべてを見始めて、 「それは良いこと」「それは悪いこと」という風に判断し始める。 そして、人にそうやって判断を持ち込み、「こうあるべき」と思い始めれば、 自分もそうでなければいけなくなるので、勝手に色々な制限を掛け始める。 相手に、「もっと頑張らないと!」と言った以上は、自分も「もっと頑張らないと」になっていく。 そして、そうやって自分が頑張るから、相手も頑張ってくれないと許せなくなる・・・。 という風に、「所有」してしまうことで、お互いにその人本来の生き方を制限して、「我慢合戦」のようになってしまう。 「所有」することは、同時に相手にも「所有」されることになる。 お互いに、「相手をコントロール」し続けなければいけなくなる。 逆に、「相手のありのまま」で居させてあげられるようになると、 お互いに頑張り合わなくて良いし、意外とそうなってみると、お互いに心が離れて行かないし、 逆に「こんなに楽で自分で居させてくれる人を手放したくない」という気持ちが湧いて、離れて行かない。 「相手を手放すことで、相手が離れない」ということが起こってくる。 これは、人間関係だけではなくて、全てにおいてそう。 「求めない」「執着しない」ことによって、それが自然と入ってくるようになっていく。 ◎手柄を主張しない 「彼は行い、しかも、着服しない。 成して、しかも、何一つ手柄を主張しない。 何も手柄を主張しないからこそ、 その手柄は、彼から奪いさられ得ないのだ。」 もし、あなたが、世の中で「誰かさん(somebody)」で居ようとしたら、 多分反対に、あなたが「誰でもない人(Nobody)」であることが証明され得る。 それは必ず証明されるに違いない。 だがもしあなたが主張せず、誰でもない人のままでいたら、どうしてそれが反証され得る? あなたは誰でもないことにおいて、あなたは誰かさんになる。 そしてそれは誰にも反証できないし、誰もそれと競争もできない。 もし勝ち誇ろうとしたら、あなたは言い負かされるだろう。 主張しないこと。そうすれば、あなたの主張は完全に満たされる。 勝ち誇ろうとしないこと、そうすれば、あなたの勝利は絶対だ。 頑張らないこと、ただいるのだ。そうすれば、頑張ってやれるような事は皆 自分からひとりでにあなたところにやってくるだろう。 […]

[読んだ本006-1]「真・かんながら」阿部敏郎 考察[1]

☆[読んだ本006-1]「真・かんながら」阿部敏郎 考察[1] さて今回は、「悟り」系の本で、阿部敏郎さんの「真・かんながら」をレビュー考察したいと思います。 この本は、著者である阿部敏郎さんの半生の半ドキュメンタリー?半小説的な物語で、 「A」さんが音楽業界で仕事をしていたところから、「一瞥体験」を経て、「天河神社」との奇妙な縁。 突然インドへ旅立つことになったことから・・・「目覚め」を迎え、「本当の自分(神の意識?)」との対話をします。 最後の方のその「本当の自分との対話」から、「A」さんが取材に来た記者との会話の中で語ったことが、非情に良かったので、抜粋して、考察したいと思います。 ◎「物語」の中を生きる 今にいるかそれとも今以外にいるか、可能性は2つしかない。 今以外とは思考が作り出す世界のことであり、たとえ人類を救済する内容だとしても、それはマインドの物語に過ぎない。 あらゆる人は、無意識に物語の世界を生きてしまう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私たちは、「今を生きている」と思いこんでいるけれど、 例えば、目の前で「誰かがしゃべっている」という「現実」を見ていても、 無意識のうちに「この人こんな髪型だったっけ?この人この話好きねえ。この人はあの人よりも賢いな・・・」 という感じで、自分の中の「過去のデータ」と比較したり、判断しながら話を聞いている。 そしてその話の内容に対しても、「それはあまり聞きたくない。なんか私のこと批判してる?・・・」という感じで、 純粋に「今」を体験していない。 一度「自分・私」というフィルターを通して、世界を見ている。 分かりやすい例で言うと、自分の子供や親せきのお子さんを見るとき、もう20歳になっても、 子供の頃のようなイメージでその子を見るので、 「この子、こんな大人なこと言うようになったの?」とビックリするような。 つまり、そういう「比較・判断」をしているときは、「今」を見ているのではなく、 「過去と比較した今」という「物語」を見ている。 それを「今」を「直接体験」していない。と言われる。 ◎「世界」は一つではない。 その世界は1人ずつの創作であり、同じものは2つとしてない。 なのに人々は、みんなが同じ世界に住んでいると思っている。だから、毎日のように関係に軋轢が生じるのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 先ほどのように私たちはみんな、漏れなく「私」というフィルターを通してしか世界を見ていない。 だから、過去の話をした時に、人が言っている「あの時の話」が 「え?そんなことあったっけ?」と「記憶違い」が起こってくる。 でも、それはその人にとっては「真実」であり「正しい記憶」だけど、 誰しもが、その「起こったこと」に「イメージ」「気持ち」「思考」などを重ねて、 「あの人なら、こんなことを言ったに違いない」「私は批判されたんだ」という感じで 「記憶」というものを創り上げるから、それぞれの「オリジナルストーリー」になっていく。 だから、なかなか分かり合えない。 しかし、「そういうものだ」ということを理解しておけば、「誰が何を言っていようと、私には何の関係もない」と囚われない生き方ができる。 ◎人は「世界」を固定する 人が作った世界には、見えるすべてのものに名前が付いていて、これはこうで、あれはこうだと言う自分なりの判断が下されている。そうやって作った世界は、表面的に動き続けてはいるが、その世界を構成する要素は固定されたままだ。 世界を構成する要素とは、例えば、自分を含めた登場人物のキャラ、善悪の基準、何が重要かの価値観、起きていることへの解釈などだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー これが、僕が今までにも書いたことのある、「なぜかいつも同じ役割になる」ということが起こる原因。 小学校から中学校、高校と上がっていっても、いつも「Aさん(に似たタイプの人)」が居て、「Bさん(に似たタイプの人)」がいて、 いつの間にか、自分がその間を取り持つ役割になっていたり、いつも遠慮して、自分のことを主張できない立場になっていったり・・・ 環境を変えれば、違う自分になれると思ったのに、場所を変えても同じだった・・・みたいな。 それは、自分自身の中の「思い込み」が強いだけ。 家族の中や、小学校の中で、「自分勝手な人(Aさん)」が居たり「引っ込み思案の人(Bさん)」が居て、その中で「自分」という立場を見出していく。 すると、違う環境になっても、無意識のうちに「ああ、この人はAさんタイプの人ね」「この人はBさんぽい」と「カテゴライズ」することで安心する。 そのために、人が変わろうが、場所が変わろうが「同じような人」が揃っていく。 これが「表面的に動き続けてはいるが、その世界を構成する要素は固定されたままだ。」 ということ。 しかし、「現実」という者は、常に変化していっている。 「川」が例えば、「長良川」が目の前に流れている。すると人は「目の前に長良川が流れている」と言うが、 その「長良川」は常に「さっきとは違う水」が流れている。 つまり、常に「長良川」は変化し続けているけど、「岐阜県のここに在る川は長良川だ」と固定して見ている。 「Aさん」だって、その瞬間その瞬間に「違う人」と言ってもいいくらい変化しているかもしれないのに、 「Aさんはこういう人」と決めることで、純粋に「Aさん」を見れなくなっていく。 ただ単に、「Aさん」が時によっていうことが変化しているだけなのに、 「Aさんらしくない」「なんか裏があるんじゃ?」「きっと皮肉なんでしょ」と勝手な「判断」で見てしまう。 そして、「Aさんに苦労する日々」を生き始めてしまう。 ◎真理は「今生まれている」 しかし、真理は今、まさに新しく生まれ続けていて、何一つ固定されたものはなく、名前をつけられるものもない。名前をつけると言うのは、それを固定したと言うことだ。人は、皆、そのように、自分で決めつけた世界に住んでいるのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー これはなかなか信じられない概念かもしれませんが、 「現実」は「いま、まさに新しく生まれ続けている」ということ。 例えば、「同じ人が同じように頑張っても、成功する時も成功しないときもある」 という風に、実は「原因と結果の法則」が成り立たない場合もあるし、成り立つときもある。 この世界は私たちが想像できないような膨大な「縁」「関係性」「影響」などが重なり合って、「ことが起こっている」。 例えば、「新型コロナ騒動」というもの。これは「誰かが何かをしたから起こった」ことなんだろうか? もちろん世の中には「アメリカの製薬会社の陰謀で」「中国の陰謀で」・・・という話をする人もいるけど、 それだとしても、「じゃあなぜ、そのアメリカの製薬会社はそんなことをしようと思ったのか?」 「なぜお金を儲けるためにそんなことを?」「アメリカの経済がヤバいから」 「じゃあ、なんでそんな風にヤバくなったの?アメリカ人が悪いことをしたから?」・・・ という風に、「原因」を探ろうとしても、キリが無いし、「AをしたからBになる」という単純なものではない。 それならば、みんなが同じことをして、同じ結果を出して、みんな「豊かで幸せ」になっているはず? ここから書くことは、実証できないし、信じられない話かもしれないけど、 常に「現実」は「今この瞬間」に新しく生まれていて、その何の関連性もない出来事を、 私たちの「脳」が勝手につなぎ合わせて、「ストーリー」を作っていっているだけだとしたら? 川の上流から、「柿」が流れてきた。しばらくして、「穴の開いた服」が流れ来た。 「まさか、誰かが柿を投げて、服に穴をあけた!?」と「ストーリー」を創り上げる。 しかし、真実は、上流に柿の木があって、熟した実が川に落ちた。ちょうど同じころ、服が破れたから川に服を捨てた人が居た だけかもしれない。 私たちは、「上流(未来)」から流れてくる「出来事(物)」を勝手に結び付けて、「過去」の経験や情報を参照して、 「これが起こったのは、これが原因だ」と言っているだけかもしれない。 だから、あなたの人生に「それ」が起こっているのは、あなたの責任ではないし、あなたの価値や、素晴らしさとは何の関連性もない。 逆に言えば、例えば「失恋」があったとする。 多くの人は、「私があんなことを言ったから」「私が魅力的ではないから」と、「過去」や「思い込み」に「原因」を見出そうとする。 しかし、それが、「次に出逢う人と最高の恋をするため」に起こったとしたら? 「未来」が原因で、その「未来」に進むために「いま」が起こったとしたら? 「いま」の意味が全く変わってきませんか? ◎すべてが必要 目覚めたときに人が知るのは、それまでの人生に起きたあらゆる事は、何一つ、無駄もなく、偶然もないと言うことだ。 ありとあらゆる事は、人類の目覚めのために起きている。 そしてその目覚めを先導するのが日本に暮らす民であり、さらにその民を先導するには完全に目覚めた者たちが必要だ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー これは色々な「悟りを開いた」とされる人や、「臨死体験」をした方の話などを読むと、みんな、 「この気づきを得るためには、今までの全てが必要だった」 「今までの出来事がなければ、私はこの場所に来ることはなかった」 という風に、「全てが導かれていたとしか言えない」ということをおっしゃってます。 「苦しみ」を知らなければ、苦しんでいる人に同情して、「やさしさ」「救い」を手渡そうとは思えない。 「悲しみ」を知らなければ、本当の「喜び」も「当たり前のありがたさ」にも気づけない。 現状のあなたにどんな「現実」が現れているように見えるとしても、 それこそが、あなたにとって一番効果的に「自分(の素晴らしさ)」に気づくための「演出」だとしたら? そして、この本もそうだし、過去の「神秘家」「覚者」が揃って「日本」に対して発言している。 「予言書」と言われる「日月神示」でも、この本(真・かんながら)に書かれている「OSHO」にしても、 これからの時代の「目覚め」のために、「日本の生まれ変わり(復興)」が重要な役割を果たすという。 そして、そのためには、この本のもっと後に書かれているけど、 まず、あなたが「目覚める」こと。 「過去」や「思い込み」や「ストーリー」にとらわれずに、 全ての瞬間で、「これは未来のために必要なことが起こっている。」 […]

[読んだ本005-3]神との対話 ニールドナルドウォルシュ 考察[3]

[読んだ本005-3]神との対話 ニールドナルドウォルシュ 考察[3] ↓この本を読んでみる さて、ちょっと間が開いてしまいましたが、「神との対話」の考察3回目です。 今回も前回「考察2」の続きで、「人間関係」について。 ◎まずは自分から あなた方は決して心から、純粋に誰かを恋することができない。 心から純粋に自分を恋していないからだ。 これからは自分を中心にしなさい。いつでも相手ではなく自分が何者であるか、 何をし何を持っているかを考えなさい。 =============== これは、僕たち占い師夫婦があらゆる場面で言っていますが、 これも僕たちが色々と学んで、夫婦で会話して、その中で感じた、大きな「気づき」の一つです。 私たちは、多くの場合、「自分の価値を知るため」に人を必要としています。 人から「すごい」とか「好き」とか「素晴らしい」と言われること、人から認められることで初めて、自分の価値を感じるという。 しかしそれでは、自分の価値を認めるためには、いつもみんなから認められる必要があります。 それではキリがありません。 「恋」をするのも、最初は純粋に「なぜか好きになった」かもしれませんが、いつの間にか、 「相手が私を愛してくれているか?」「相手は私を尊重してくれているか?」という「取引」のようになってしまいます。 「相手が愛してくれるから、私も愛しましょう」という感じ。 しかし、もし「自分が自分に本気で恋をしていたら」? 誰かに認められる必要があるでしょうか?相手が愛してくれていようが、愛してくれていまいが、 「私には価値があって、私は私が大好き。そんな私があの人を好きなんだから、それ以外に何の必要があるの?」 という感じ? 私が私に満足しているんだから、誰にも認められる必要がない。 その時初めて、純粋に人に恋することができる。 分かりやすい例えで言うと、夫婦ともに経済的にも精神的にも「自立」していれば、 「離婚したら、経済的に大丈夫だろうか?」とか「ちゃんと働いてよ!」「ちゃんと家事してよ!」 というようなことを気にしなくていい。 だから、「利害関係」もないし、「相手」に執着しないので、逆に「純粋に愛すること」ができる。 「私はあなたが居なくても生きていける」という思いでいる方が、お互いに思いが離れない。 ◎人間関係を良くするには? お互いが、人間関係の目的は義務ではなく機会を作り出すことだと考えれば、 成長し、自分を十分に表現し、人生をできるだけ高い位置に引き上げ、 自分自身に抱く間違った考えや卑小な考えを癒し、最後には2人の魂の合体を通じて、 神と1つになるための機会を作り出すことだと確信すれば、 そしてあなたがこれまでのような誓いではなく、そういうことを誓えば、人間関係はとても良くなる。 ================ どんな人間関係も、「友人ならこうあるべき」「夫婦ならこうあるべき」「会社員ならこうあるべき」・・・ という勝手な思い込みの「こうあるべき(義務)」ではなく、 みんなが、「自分の目の前に現れる人はすべて、私を知るため、私の本当の望みを知るため、私はどうありたいかを知るため・・・」 だと思っていれば、どんな人が目の前に現れても、それを「手本」にできる。 例えば、あなたが身長180センチで素晴らしいポロポーションの持ち主でも、 世界の全員が同じ体型であれば、そのすばらしさに気づくことはない。 凄く痩せている人、背の低い人、太っている人、色々居るから、「私」を確認できる。 あの野球のWBCでも大活躍した「吉田正尚」選手。 彼は野球選手としては小柄な173センチという身長で、若いころはやはり、 「もっと恵まれた体格だったら・・・」と思ったこともあったそうですが、 そこから、「じゃあ、この体格を最大限に生かす方法は?」と追及して、今やメジャーリーグでも、トップクラスの成績を出し始めている。 「身長が低いから、周りはもっと大きいから、僕には無理だ」とあきらめていれば、今の彼の活躍はなかった。 「あの人は身長が高いからパワーが出やすい、では、僕は回転速度を磨いてみようか?」という感じ。 どんな条件でも、あなたが「こうなりたい」とおもう、理想に近づく上で、 出逢う人、出会う人、が「お手本」になる。「反面教師」も現れる。 そういう目で、全ての人を見れば、全てが「良い教師」になり得る。 「どうしようもない旦那」でも、あなたの「包容力」を発揮し、「良い妻」になるための材料になる。 ◎人生に保障を求める? 人生で保証が欲しいと言うなら、あなたは人生を望んでいないことになる。 それでは、書かれた台本通りのリハーサルを望んでいるだけだ。 人生は本質的に保証のないものだ。そうでなければ、人生の目的そのものが損なわれてしまう。 ============ そう、極端な話、「あなたは、自由に使える100兆円を持っていて、全ての人が常にあなたを愛してくれて、一生何にも困りません! 仕事もしなくて良いし、ご飯を作る必要もない、家事もしなくて良いし・・・」 と「保証」されたら、きっと最初の何ヶ月?1年くらいは楽しいかもしれないけど、 きっと、飽きてくる。 何度も言うように、「ゲーム」を買って、プレイし始めてみたら、最初から 「フル装備、レベル999 攻撃力9999 防御力9999、不老不死、誰にも負けない」 さらに、行先、攻略法をすべて教えてくれる。 なんて設定だったら、「ふざけんなよ!金返せよ!」ってなるように、 私たちは、実は「冒険」「挑戦」からの「達成」を楽しんでいる。 「苦しみからの解放」「忘却からの気づき」「分離からの統合」・・・ そういう「落差」を味わいに来ている。 だから、ハプニングも起こるし、悲しみも湧いてくるし、 だからこそ、楽しみもあるし、喜びも感じられる。 せっかく生まれてきたんだから、みんなで楽しみましょうw ◎ハプニングを歓迎する? 難題や困難を避けようとしてはいけない。難題や困難を歓迎しなさい。心から歓迎しなさい。 神からの偉大な贈り物だと思いなさい。他との関係の中でそして人生でするべきことができる 栄えある機会だと思うことだ。 困難にぶつかった時、パートナーを敵だの対立相手だのと考えないように努力しなさい。 どんな人も、どんなことも敵だと思わないこと、それどころか問題だと思わないことだ。 すべての問題をチャンスだと捉える力を養いなさい。 チャンスと言うのは本当の自分とは何かを決め、本当の自分になることだ。 =============== そして、人生は必ず「ハプニング(難題・困難)」が起きてくる。 時には、人によっては、耐えがたいような悲劇も起こる。 もし「死」を「悲劇」とするなら、全ての人に必ず「悲劇」は起こる。 失って初めて本当に気づくこともある。 失ってから、また新しく出会ったからこそ、もっと優しくなれたりする。 傷ついた分、誰かの気持ちを理解してあげられる。 今ある「当たり前」が幸せなんだって気づける。 その経験から、「私ができること」を見出していける。 全ての目の前の人も物も時代も、いつか消えていくもの。 だから、どんな困難も、あなたに与えられたプレゼント。 「私」は何者で、どんな風に感じて、どんなことができるのか? それを知るためのプレゼント。 ◎「あの人」以上を見てあげる 地平線を広げなさい。視界の奥行きを広げなさい。自分の中に、 これまで見ていた以上のものを見ることだ。 パートナーにも、今まで以上のものを見ることだ。 人があなたに見せる以上のものを見ても、決して人間関係を傷つけることにはならない。 なぜなら、本当は見える以上のものがあるからだ。ずっと多くのものがある。 人がそれを見せないのは、恐れているからだ。あなたがもっと多くを見ていることに気づけば、 相手は安心して、あなたが既に見ているものを向こうから見せてくれるだろう。 ================= 「私」を「あの人」をもっと大きな目で見てあげて。 「私」も「あの人」も今までのこの社会の中のルールの中で評価されて、制限されて生きてきた。 だから、「ハイスペック」であろうが「冷たい人」であろうが、それはその人のほんの一面だけをみて評価しているだけ。 みんな「敵」じゃなくて、同じ制限の中を一生懸命に生きる仲間。 もしかしたらあの人は、会社勤めではなくて、農業をしたら天才かもしれない。 もしかしたらあなたは、手芸の天才かもしれない。 「社会一般」やあなたの中の「こうあるべき」はすべて、外側から求められてきた「常識」。 […]