[特典2-004]「足るを知る(者は富む)」の本当の意味と本当の豊かさ

☆「足るを知る(者は富む)」の本当の意味と本当の豊かさ

さて、中国の哲学者「老子」の有名な言葉に

「足るを知る」という言葉があります。

日本では特に「身の程をわきまえる」とか「今あるもので十分幸せだと思いなさい」「求めすぎるな」

という感じで、相手を諫めるような感じで使われていることが多いような気がします。

しかし、あまり言われませんが「足るを知る」の一説には続きがあって、

漢文では「知足者富」、つまり「足るを知るものは富む」とあります。

僕が色々と学んだ中で感じた、この「足るを知るものは富む」という言葉の本当の解釈と、それを実生活でどう生かしていくか?

ということを考察したいと思います。本当の意味で豊かに生きるヒントになると思います。

◎足るを知る者は富む

この「足るを知る」ですが、僕も実際に「この言葉って誰の言葉で、どういう意味で言ったのだろう?」

ということを調べてみるまで、老子の言葉ということも知らなかったし、

この「足るを知る」という言葉が、「老子道徳経」のほんの一節だということも初めて知りました。

この「足るを知る」が出てくるのは、その「老子道徳経」の「第33章」に当たり、

全文は

「知人者智、自知者明、勝人者有力、自勝者強、

知足者富、強行者有志、不失其所者久、死而不亡者壽」

というものです。

これを大雑把に、日本語に書き下すと、

「人を知る者は智、自ら知る者は明(めい)なり。

人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。

足るを知る者は富み、強(つと)めて行なう者は志有り。

その所を失わざる者は久し。死して而(しか)も亡びざる者は寿(いのちなが)し。」

という感じで、まあこれも訳する人によってかなり色々な解釈があるのですが、

僕の大雑把な解釈で言うと、

「この(外の)世界のことをよく理解しているものは賢いと言えるが、

自分の内面をちゃんとわかっているものは、さらに明晰である。

人に勝負で勝つということは確かに「力がある」と言えるが、

自分の果てない欲望に打ち勝てる者はさらに強い。

自分に本当に必要なものを知り、余分なものを求めず、充実感を感じながら生きられるものは本当の意味で富む。

足るを知ったうえで、志を持つものは、頑張らなくても努力が起こり力強く進むことができる。

その在り方を見失わないものは落ちぶれることが無いし、

その身が滅びたとしても、その想いは生き続ける」

というような感じでしょうか?

まあ、これはかなり僕の「主観」が入っているので、個人個人で解釈されたらいいと思いますが、

僕がお伝えしたいポイントは、普段のInstagramの投稿などでも書いているように、

私たちの意識は「足りない」と思い続けていると、本当に「足りない現実」を見るようになっていく。ということです。

◎トモヒト流「足るを知るものは富む」解釈

ここまでも、これから何度も言うことですが、

私たちの意識は、「こうである」と信じているものをそのまま見ます。

私たちの「意識」は「グーグル」のように、「世界は暗い」というワード(思い込み)を入力すると、

「世界は暗い」ということに関する情報ばかりを収集してくれます。

そして、そのワード(思い込み)が変わるまで、常にそれに関する情報ばかりを認識するようになります。

「足りない」という不足感を持っている状態だと、

常に、世界は足りないようにしか見えなくなります。自分の能力さえも見えない、

自分の能力も生かす方法が分からないという状態に居続けます。

もともと「世界が不足に満ちているから、不足しているように見える」のではなくて、

どうしても、子供のころからの両親の言葉や、学校などの教育から、

「私たちは、求めて、努力して、何かを達成しないと、十分な豊かさを受け取れない」

という「常識」「信念」を作り上げてきています。

特に日本では、いまだに戦争時代の「欲しがりません勝つまでは」という精神がどこかに残っていたり、

「働かざる者、食うべからず」という言葉を親から言われたり、

どうしても、「頑張らないと豊かになってはいけない」という深層意識が強い民族でもあります。

そのために、無意識のうちに最初から「足りない」というワードが検索窓のところにあり続けている状態です。

極端な言い方をすれば、あなたの目の前で、常に豊かさの部分にはモザイクがかかっていて、見えなくなっている状態です。

そして、「自分が豊かになるためには頑張って、立派な人にならなければならない」と思いこんで、「本来の自分じゃないもの」になろうと頑張るのです。

「あの能力も手に入れないと。大きな家も手に入れないと。見た目も洗練させて。多くの人に尊敬される人になって・・・」

という風に、「不足を埋める」ために終わることのない努力をし続けるのです。

しかし、その「不足」は「思い込み」が生み出したものなので、いわば「幻想」なので、いつまでも埋まることはないのです。

その本当に存在しない「不足」をどうにか埋めようと、死ぬまで頑張り続けることになるのです。

その過程で、不足を埋めることに必死で、本当の人生の豊かさを味わうことなく、気づくことなく一生を過ごしてしまう場合もあります。

しかし、前回の「『いま』を生きることで、人生は激変する」のところでも書きましたが、

そうやって「未来に向かって、こうしなければ」というのは「思考」の世界、

「いま」に居られていない状態です。だから常にプレゼントを見逃す。

「自分にはすでにすべてが備わっていて、『自分』を生きることで、本当の豊かさを手にすることができる」

ということにいつまでも気づけないままなのです。

◎「足るを知る」は「求めるな」じゃない!

そして、「足るを知る」と言われると、「求めることはいけないこと」

という風な印象も感じるかもしれませんが、

ここまで解説してきたように、「足るを知る」ことで、「不足」にフォーカスすることなく、

「自分はすでに完璧で、この自分をどう生かして生きていくのか?」ということがテーマになります。

先ほどの「足るを知る」の続き、

知足者富、強行者有志」

の部分、「足るを知ったうえで、自分のすでに持っているもの、能力(富)に気づき、それを生かしていく生き方」

私たちは「長所」も「短所」も「体質」も「性格」も

「あなた」という個性を生み出すために持ち合わせてきました。

その「あなた」だからこそできること、人に伝えられること、世界に貢献できることを見つけていく。

そのことこそが、あなたの「心の豊かさ」「充足感」につながることだし、

それこそが頑張ることなく、「努力」できることであり、

それでこそあなたが一番お金を生み出せる「基」となるのです。

◎オリラジの中田さんの話

最近たまたま見たyoutubeの動画、

千原ジュニアさんのyoutubeチャンネルの動画で、オリエンタルラジオの中田さんとの対談動画があったんです。

その中で、中田さんは、

「『武勇伝』のネタでブレイクしたものの、そのあとレギュラーが次々に終わり、相方の藤森が「チャラ男」でブレイクしたおかげで、再浮上できて、

そのあとまたテレビに出れるようになったけど、手ごたえが無くて。

漫才のイベントなどに出させてもらったりしたけど、これも手ごたえがなくて。

その時に「ああ、そもそも『武勇伝(リズムネタ)』で出てきたのであって、俺たち漫才師じゃねえじゃん!ということに気づき、

じゃあ、音楽やってみようということで『perfect human』をやってみたらブレイクして。

でもその後が続かなくて。youtubeやってみようかな?と思ったけど、完全に出遅れていて。テレビのレギュラーも無くなって。

あれ?何もないじゃん!?ってなって・・・。

youtube頑張ろうと始めたけど、なかなか伸びない。

その時に『本を読んでそれを要約する』というのが好きなことに気づいて。

これやってみようとやり始めたら、一気に伸び始めて・・・。」

というお話をしていました。

ああやって、「芸能界で活躍している」という風に見えていた中田さんも人知れず、苦悩して、「自分の能力で何とかしてやろう」と思って頑張ったけど、

「自分には何もないんじゃ?」と思い始め。

ところが、「人のネタ(本)を要約する」ということで、人気が出て、吉本興業を退社しても、youtubeで、初めて本当の手ごたえを感じて、生活できている。

そう。人はどうしても「自分自身が評価されたい」「大した人だと思われたい」

「自分の能力で勝ち取る!」ということにこだわりすぎて、

世間で認められるために、自分じゃないものになってでも、人気を得ようとします。

しかし、世間的にはある程度「成功している」という風に見えても、中田さんの様に苦悩が付きまとい、手ごたえを感じられず、迷走することもあるのです。

「本を要約する」というのは、彼自身が書いた本じゃないし、

「自分の手柄」ではないかもしれないけど、それを借りて、「面白く要約する」ということが、彼の「特色」であり、

それによって、視聴者がその本を読んでいる気分になれたり、面白そうな本を発見できるきっかけになったり、解説自体が面白くてためになったり。

「私」自体がスポットライトを浴びなくても、その能力を生かすことで、世界に貢献できる。

「自分」がいただいた「役柄」に徹するということ。

中田さんの場合なら、「芸人になりたい」と芸能界に入って、最初は異例に速さでブレイクしたけど、

「漫才師」としてトップクラスになれなかった。司会者としてもそれほど活躍できなかった。音楽でも、長続きはしなかった。

でも、その過程の結果、「自分の今の役割はこれだ」と見つけることができた。

「自分が役割を果たせている!」という「誰かから必要とされている!」という「充実感」。

これこそが今回僕が言いたい、「足るを知る」ということであり、

きっと、中田さんは「充足感」という「富」を手に入れた。

そして、その「基盤」ができたうえで、「また新しいことをやりたい」とおっしゃっていました。

◎僕もそう。

まあ、僕は中田さんみたいに活躍しているわけではないので、

「同列で語る」わけでもないんですが、

僕も、こうやって「占い師」をしたり「講座」をしているのは、

「ああ、これが自分の役割かも!」と気づいたからです。

もともと、20代前半までは「スピリチュアル」には全く興味が無かったんですが、「パニック障害」になって、家を一歩も出れない状態までになって、

その時にワラにもすがる思いで、「自己啓発」「心理学」「スピリチュアル」などの本に出会い。

その中で「引き寄せの法則」を実践し始めたけど、段々と逆に「ひどい状態になっていく」ということを経験し、

「悟り」などを学び始めると、今まで「スピリチュアル」で学んできたことと、矛盾するような内容、希望を失うような内容で

完全に迷子になっていきました。

人生も、経済的にも、状況的にも「長い低迷期」があり、

いよいよ、「もうだめかも!」と思ったあたりから、

「もう、自分ができることをとにかくやるしかない!」と感じ、

自分が持っている「知識、気づき」などをまとめ始めました。

そうやってまとめていくうちに、またいろいろと「気づき」が訪れて、

段々と、「スピリチュアル」も「悟り」も矛盾しているわけではなく、

「物事を見ている次元(視点・視座)が違うだけだ!」ということが理解できるようになり、

また、「スピリチュアル」でも、「真実を表現しているもの」と「希望・妄想が混じっているもの」などが分かるようになっていきました。

そのあたりから、「僕の役割は、スピリチュアルなどで『迷子』になっている人を、誘導してあげる、ということかもしれない!」と思い始めたのです。

「スピリチュアル」で起こりやすい誤解や、間違った思い込み、

方向を間違うことで、後々、余計に苦しいことになっていく事など、

できるだけ、僕が陥ったような「スピリチュアルを頑張るほど悪くなる」というような状態にならないように、伝えていく事ができれば、というのが今の活動の理念です。

結局「自己啓発」だって、「仏教」だって、「スピリチュアル」だって、「聖書」だって、

それ自体の「教え」が「良いもの」だとしても、

それを受け取る側が「足りない」「足りないものを埋める」為にそれを利用しようとすれば、

ドンドンと「不足」が増えて、それを限りなく求め続けるというループに入っていくだけです。

もっと言ってしまうと、本当に「スピリチュアル」的に進化しているなら、

「引き寄せの法則」を使おうなんて思わなくなるのです。

だって、「引き寄せる」必要があるということは、「不足」を見ているということだから。

もともと「引き寄せなくても、満たされている」んですから。

そして、そうやって、「自分が満たされていることを知っている」と自然と、本当に必要なものはもたらされて、

その人が、「役割を全う」できるようになっていくでしょう。

これこそが、「足るを知る者は富む」ということじゃないでしょうか。