![[特典3-001]迷った時の道の選び方「無漏路へ帰る」](https://salon.hikiyose-saikyou.com/wp-content/uploads/2022/07/011.jpg)
☆迷った時の道の選び方「無漏路へ帰る」
さて、今回は「迷った時の道の選び方」ということで書いてみたいと思います。
まあできるだけ毎日この「0か月目のほぼ日刊コンテンツ」を書こうとネタ探しをしたりするのですが、
今日はたまたま全く違うところで、「一休和尚」の言葉、
「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)へ帰る一休み
雨ふらばふれ 風ふかば吹け」
を目にして、さらに、「どう書こうかな?」とタロットを引いたら「ペンタクルスの2」で「選択」みたいなことなので、
「道の選び方」ということで書いてみたいと思います。
◎「一休さん」の言葉
そもそもこの言葉は、アニメ「一休さん」のモデルともなった、「一休禅師」の言葉と言われていて、
諸説あるけど、この言葉がもとで「一休」と名乗り始めたとも、
もともと「一休」だったころに、自分の名前をもじって、「一休み」という言葉で、「悟りの境地」を言い表したとも言われている。
そして、「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)へ帰る一休み雨ふらばふれ 風ふかば吹け」
この言葉も、人によっていろいろな解釈があるけれど、僕が個人的にこれが一番しっくりくるかなあ、という解釈としては、
「無駄な努力をして、気(エネルギー)が漏れる生き方から、
本来の自分に返り、気を漏らさない生き方へと帰る。
一度その境地に達すれば、
雨が降ろうと、風が降ろうと、何も影響がない」
というような感じでしょうか。
私たちは、どうしても「社会」「民族」などの中で、
「このグループの中で生きるには、こうしなければいけない」という生き方を無意識のうちにしている。
もちろん、それが「合っている」という人もいるかもしれないけど、
「社会の中」で生きてきて、どこか違和感を感じている人は、必ず
「私じゃないもの」を演じて生きている。
それは、常に、「他人の目」「自分の目」を気にして生き続ける、「気の抜けない」世界で、
常に、「義務感」「焦燥感」「罪悪感」などと離れられない生き方でもある。
◎それも仕方のないこと
そして、これはそうやって、「自分じゃないもの」を演じて生きることが、「悪いこと」ということでもない。
幼少期から、大人になるまで私たちは「こう生きるべき」「目立ってはいけない」という風に教育されて生きてきたし、
実際に「社会の中」でうまく生きていこうと思うなら、そういう生き方じゃないとなじめない。というのは確かだから、
あなたがいま、そういう生き方をしていることを自分で責める必要もない。
ただ、その生き方が「疲れる」「もう投げ出したい」とどこかで感じているなら、
「有漏路」から「無漏路」へと帰っていくチャンスでもある。
◎僕はそれができない「欠陥品」だった
少し個人的な話をさせてもらうと、
僕はその「社会の中になじむために演じる」ということが少しもできない人間なんです。
もう高校のころから、「なんでみんなこんな嘘ばっかりついて生きてるんだろう?」
「そんな交友関係、つないでおく必要ある?」という感じで、
友達付き合いの中でも違和感しかなくて、その時その時気の合う誰か一人と、時々遊ぶ以外は、ほとんど一人でした。
それは、社会人になっても変わらず、「なんでみんな好きでもないことを毎日できるの?」という感じで、
頑張ろうとすると、すぐに体や心の状態が不安定になる。
さらに20代前半には「パニック障害」になって、まともに通勤もできなくなり、
もう完全に社会的には「欠陥品」としか言えない人間でした。
でも、そこから色々と学んでいくと、「ああ、こんな自分でも生きていていいのかも」
「そういう自分を生かしていく生き方もあるかも」と一つ一つ発見があり、
「でこぼこの自分を社会に無理やり合わせる」のではなくて、
「でこぼこの自分のまま、生きていく方法」というのを探し始めました。
そして、この「本来の自分を生きる」ということで、みんなが一番難しいのが、
「ありのままの自分を出したら、会社や友人に嫌われて、生きていけないかも」
というような「不安」「恐怖」を感じてしまって、なかなか踏み出せないということになると思うのですが、
僕の場合は「ラッキー」なことに、「どこにも長期間勤められない」「友人もほとんどいない」という状態だったので、
いつでも「ありのままの自分」で生き始めることが出来ました。
まあ今考えればですけどねw高校から20代後半くらいまではそれはそれは苦悩しました。
「このままどうやって生きていくの?」という感じでした。
もちろん孤独も感じて、「なんで、周りに誰も居ないんだろう?」と思ってました。
でも今になってみれば、「ありのまま」で居て、それを発信し始めると、その「ありのまま」の自分に合う人しか寄ってこない。
だから、ずっと「頑張らずに」自分で居られる。それでちゃんと愛される。
何て楽になったんだろうと感じます。
完全な「無漏路」とは言いませんが、その苦悩していた時期よりも、
「罪悪感」「自己嫌悪」などは全く感じなくなったし、
「自己肯定感」なんてわざわざあげなくても、「自分が素晴らしいことは知っている」という感じですしw
「自分が進むべき道」はいつも、ハッキリしている。という感じになったんです。
◎なぜ「有漏路」になっていくのか?
これはここまでのコンテンツでも書いてきたけど、
そもそもこの世の中の出来事自体には「良い」も「悪い」も無くて、
例えば極端な話、「誰かが亡くなった」としても、ある人にとっては悲しい寂しい出来事だけど、
ある人からすると、「あの人、身体的にも精神的にも苦労してたから、やっと解放されて良かった」と感じる場合もある。
しかし、ここであまりにもその人の「良い」「悪い」という判断基準がはっきりしすぎていると、
毎日どんな出来事にも、「ああ、こんな悪いことが起こるなんて!」
「なんてラッキー、こんなに運が良いと後が怖い」というような感じで、
「悪いことが起こって欲しくない!」という思いが強くなり、悪い方向に考える傾向が強くなる。
「こんな良いことが起こるなんて、運を使い切っちゃうんじゃ?」というような罪悪感を感じたりもする。
すると、「できるだけ悪いことが起こらないように!」と「現実」を常に監視して、「悪い方向に行かないように」と気を使い続けたり、
「良いこと」が起こっても、「喜びすぎては、人に嫌われる」とか「調子に乗りすぎては、次に失敗する」というように、
「こうでなければいけない」という「ルール」がたくさんありすぎて、
明らかに「有漏路」の生き方。常に気にすることが多すぎて、エネルギーがダダ漏れ状態になってしまう。
◎「無漏路」の生き方
そして逆に、「無漏路」の生き方は、そういう「基準」をできるだけ持たない。
それが「雨ふらばふれ 風ふかば吹け」という部分に現れている。
「雨が降る」「(強)風が吹く」ということが、「天気が悪い」「縁起が良くない」
という風に決めてしまうと、「晴れ」以外の時は気分が落ちる。
そうなると、「あの日は予定があるから、雨が降らないと良いけど」とか
「風が吹くと庭の花が折れるから嫌だ」という風に、全てに気を使わないといけなくなる。
でも、「どうにでもなればいい」と「あきらめて」しまえば、
状況がどうあろうが気にならないし、常に「じゃあ私はどうしよう」ということだけを気にすればいい。
そして、「私は自分にできることしかできないんだから」と分かっているので、
迷うこともほとんどない。
そして、無駄な部分にエネルギーを無駄遣いしなくなるので、
「判断力」「洞察力」「決断力」などがアップするというか、「曇りがなくなる」
「明晰」になるので、それまで「あれこれ気にして」居た時よりも、逆に「能力が上がる」ように見える。
実際は、「本来の力を発揮している」だけなんだけど。
◎「戦車の砲手」で言えば
この「有漏路」の生き方を「戦車の砲手(大砲を打つ人)」で例えれば、
「砲手」なのに、同時に戦車を運転しながら、周りの敵を気にしながら、戦車も修理して・・・
というような状態で、上手いこと相手の戦車に弾を当てるのは難しいですよね?
ところが、現代では、あまりに色々な情報が入ってきたり、
「社会に出たらこうするべき」という感じで、自分が「砲手」にもかかわらず、
戦車の運転から、戦車の作り方まで同時に学ぼうとしている。
いやいや、それよりも「大砲の性質」とか「整備の仕方」「狙いの付け方」「風の読み方」・・・なんかに集中したほうが良いですよね?w
だから、現代人の多くは「有漏路」、無駄な部分にまでエネルギーが漏れ続けている状態。
「社会人」でも、その人は実は「開発部」向きの性質なのに、
「セールストーク」を学んだり、「良い人材の雇い方」を学ぶよりも、
いかに画期的な商品を開発するか?に力を注いだ方が良い。
僕が、一流企業と言われる会社で社長に上り詰める方法を考えるよりも、
こうやって、「人の気づき」につながる文章を書いている方が、ちょっとは社会のためになるww
◎ハプニングは「ナビ」
そして、段々と「無漏路」の生き方になっていくと、
今までこだわっていたり、いちいち一喜一憂していた「出来事」「ハプニング」ということが、実は「ナビシステム」だという風に感じてくる。
実は、あなたに起こっている「ハプニング」というのはほとんど、あなたを「本来の道に戻そう」というために起こっている、
身体で言えば、「自然治癒力」みたいなこと。
「体に無茶しているよ」とか「疲れているよ」という時に「痛み」や「発熱」などが起こるように、
「ほらほら、あなたの進むべき道はそちらじゃないでしょ」という感じで、
いま頑張っていることを失敗させたり、不快な人が参加してきたり、
何度やっても成功しなかったり・・・
そういうハプニングをいちいち、「最悪だ、なんてついてないんだ!」と気にして立ち止まったり、同じ道を突き進んでも
次々に同じようなハプニングが起こって、「泣きっ面にハチ」状態になっていく。
「だから!あんたの進むべき道、そっちじゃないから!!」という感じ。
それに気づかないと、「大病をして動けなくなる」というような、「強制終了」が起こってくる。
その前に、「ああこれがうまくいかないし情熱が続かないってことは、違う道に行けってことね」と気づいていけば、
それほどの大きなハプニングは起きない。
◎道の選び方
そして、ここまでで十分伝わったと思うけど、
これからあなたが「道を選ぶ」時に気にするべきは、
1,自分じゃないものになろうとしない
これはもう基本。あなたにはせっかくの「個性」「特質」があるのに、あなたがあなたじゃなくなろうとしたら、誰も得しない。世界にとって損失でしかない。
2,それによって人や社会にどう見られるか?を気にしない。
この「他人の目」「社会の目」というのは、実は「幻想」で、今までの自分の中で育ってきた「常識」がそう思わせるのであって、
あなたの「常識(思い込み)」が変わっていくと、今まで見えていた「社会」「他人」とは違った、あなたを理解して、受け入れてくれる「社会」「他人」が見えてくる。
あなたがあなたらしく生きていれば、あなたに最適な人が寄ってきて、残り、
合わない人は自然と去って行く。それだけ。すごく気楽になる。
3,自分が「役にたてる」方を選ぶ
さっきも書いたように、僕が「一流企業」に入るよりも、今の方がきっと役に立てるように、
「戦車の砲手」が「戦車の作り方」よりも「正確な射撃」を学んだほうが良いように、
あなたが自分の持っている能力、興味、趣味、特徴、欠点で、
「これをどうやって生かせば、誰かの役に立つだろう?」と考えて、できるだけ貢献しやすい道を選んでいく。
もちろんそれは、「頑張っている人を応援する」というような形でもいい。
前も言ったと思うけど、「スター」は一人では「スター」にはなれない。
いくらその人がすごい能力を持っていても、それを「応援したい」という人が出てこなければ、「スター」にはなれない。
つまり、「スター」とは、その何かの能力に長けている人と、それを支える人の共同作業によってでしか生まれない。だから同じ価値なんです。
どちらを選ぶかは自由。無理せず、合っている方を選べばいい。
4,「ワクワク」を選ぶ
そして、これは1か月目の講義でも詳しく解説するけど、
「命」の観点からすると、「ドキドキ」を感じられたらなんでもいい。
だから、それが「やばい!」とか「もう本当に嫌になる!」という「(ヒヤヒヤ)ドキドキ」でも、
「これってやってみたらどうなるだろう?」とか「思い切って飛び込んでみようかな!?」という「(ワクワク)ドキドキ」でも
どちらでも、「援助」してくれる。
だから、どちらにしよう?と迷ったときは、できるだけ「ワクワク」の方を選んでみよう。
「このままじゃやばい!」というような「ドキドキ」を解消するために頑張り始めると、
いつまでもそういう「やばいドキドキ」が続き始める。
こんな感じで、「道」を選んでいけば、きっと「楽で楽しい」旅になっていく。