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[サイド090]「老子道徳経」考察013
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☆[サイド090]「老子道徳経」考察013 ~「徳」の経~ ◎第37章 上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。上徳無爲、而無以爲。下徳爲之、而有以爲。上仁爲之、而無以爲。上義爲之、而有以爲。上禮爲之、而莫之應、則攘臂而扔之。故失道而後徳。失徳而後仁。失仁而後義。失義而後禮。夫禮者、忠信之薄、而亂之首。前識者、道之華、而愚之始。是以大丈夫、處其厚、不居其薄。處其實、不居其華。故去彼取此。 [書き下し] 上徳(じょうとく)は徳(とく)とせず。是(これ)を以(もっ)て徳(とく)有(あ)り。下徳(げとく)は徳(とく)を失(うしな)わざらんとす。是(これ)を以(もっ)て徳(とく)無(な)し。 上徳(じょうとく)は為(な)すこと無(な)きにして、而(しか)して以(もっ)て為(な)すとすること無(な)し。下徳(げとく)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して以(もっ)て為(な)すこと有(あ)りとする。 上仁(じょうじん)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して以(もっ)て為(な)すこと無(な)し。上義(じょうぎ)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して以(もっ)て為(な)すとする有(あ)り。 上礼(じょうれい)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して之(これ)に応(おう)ずる莫(な)し。則(すなわ)ち臂(うで)を攘(はら)って而(しか)して之(これ)を扔(ひ)く。 故(ゆえ)に道(みち)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に徳(とく)あり。徳(とく)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に仁(じん)あり。仁(じん)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に義(ぎ)あり。義(ぎ)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に礼(れい)あり。 夫(そ)の礼(れい)なる者(もの)は、忠信(ちゅうしん)の薄(うす)きにして、而(しか)して乱(らん)の首(はじめ)なり。前識(ぜんしき)なる者(もの)は、道(みち)の華(はな)にして、而(しか)して愚(ぐ)の始(はじ)めなり。 是(ここ)を以(もっ)って大丈夫(だいじょうぶ)は、其(そ)の厚(あつ)きに処(お)りて、其(そ)の薄(うす)きに居(お)らず。其(そ)の実(み)に処(お)りて、其(そ)の華(はな)に居(お)らず。故(ゆえ)に彼(あれ)を去(さ)りて此(これ)を取(と)る。 [意訳] 上徳(じょうとく)は徳(とく)とせず。是(これ)を以(もっ)て徳(とく)有(あ)り。下徳(げとく)は徳(とく)を失(うしな)わざらんとす。是(これ)を以(もっ)て徳(とく)無(な)し。 最上の「徳」を備えている人は、いちいち「徳」を意識しない。だからこそ、常に「徳」がある。 レベルの低い「徳」の人は、「徳」に執着して、いつも「良いことをしよう」としている。だからあまり「徳」とは言えない。 上徳(じょうとく)は為(な)すこと無(な)きにして、而(しか)して以(もっ)て為(な)すとすること無(な)し。下徳(げとく)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して以(もっ)て為(な)すこと有(あ)りとする。 最上の「徳」の人は自然とみんなにとって良いことをしながらも、いちいち「良いことをした」なんて言わない。 レベルの低い「徳」の人は、「良いことをしよう」と努力して、「これは私がやった」なんて言うから、「徳」とは言い難い。 上仁(じょうじん)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して以(もっ)て為(な)すこと無(な)し。上義(じょうぎ)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して以(もっ)て為(な)すとする有(あ)り。 「仁(慈悲)」を持った人は、自分が「良いことをした」なんて意識しない。 「義(義務)」を行う人は、どこかで「こうしなければいけない」という義務感からやっている。 上礼(じょうれい)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して之(これ)に応(おう)ずる莫(な)し。則(すなわ)ち臂(うで)を攘(はら)って而(しか)して之(これ)を扔(ひ)く。 「礼(形式)」を為す人は、良いことをするけど、それに対して反応が無ければ、「お礼」を要求する。 故(ゆえ)に道(みち)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に徳(とく)あり。徳(とく)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に仁(じん)あり。仁(じん)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に義(ぎ)あり。義(ぎ)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に礼(れい)あり。 つまり、「タオ」から外れると「徳」が必要となり、 「徳」が失われると、「仁(慈悲)」が必要になり、 「仁」が失われると、「義(義務)」が必要になり、 「義(義務)」が失われると、「礼」が求められる。 夫(そ)の礼(れい)なる者(もの)は、忠信(ちゅうしん)の薄(うす)きにして、而(しか)して乱(らん)の首(はじめ)なり。前識(ぜんしき)なる者(もの)は、道(みち)の華(はな)にして、而(しか)して愚(ぐ)の始(はじ)めなり。 「礼」というものは、人の真心が薄れたから生まれたもので、「乱世」の始まりである。 「知識」から行動を起こす人は、「タオ」の華やかな部分だけを求めて行動するような人だから、愚かしい。 是(ここ)を以(もっ)って大丈夫(だいじょうぶ)は、其(そ)の厚(あつ)きに処(お)りて、其(そ)の薄(うす)きに居(お)らず。其(そ)の実(み)に処(お)りて、其(そ)の華(はな)に居(お)らず。故(ゆえ)に彼(あれ)を去(さ)りて此(これ)を取(と)る。 だから本当に立派な人は、「タオ」の真意を知り、その表面上のことに惑わされない。 「タオ」の核心に触れて、表面のきらびやかさに惑わされない。 だから、「幻想」を手放し、「真実」を生きるんだ。 [考察] 本当の「徳」というのは、全く意識せずに、その人が自分の思うがままに生きていたら、 それが人の役に立って、みんなからありがたがられるようなことを言うんだ。 たとえ人から、「ありがとうございます!」と言われても、「え?自分がしたいと思ったことをしただけですが?」くらいのもの。 世の中で言われる「徳の高い人」の多くは、「自我」の視点から、 「みんなに『良い人だ』という生き方をしよう!」と意識しているから、本当の「徳」とは言えない。 「仁」というのは、「人を思いやる心(慈悲)」だから悪いことではないけど、 それにはどこか、「人には優しくしなければいけない」という「ルール」みたいなものがあるから、「徳」とは言えないし、 「義」というのは、「人として生きるならこうでなければ」という「義務感」みたいなものがあるから、「思いやり」とも言えない。 「礼」というのは、「お互いに良いことされたら感謝しなきゃね」という「形式(取引)」みたいなものだから、さらに良いとは言えない。 そもそも、「タオ(ただそう在る)」を忘れてしまった世の中に、「徳(真心)」が必要になり、 「徳(真心)」が忘れられてしまって、「仁(思いやり)」が必要になり、 「仁(思いやり)」が忘れられてしまって、「義(義務)」が必要になり、 「義(義務)」が忘れられてしまって、「礼(形式)」が必要になる。 「礼」というものは、「こういう時はこうしなければいけない」という「形式」だけだから、 みんな、「心からそうしている」ことではない。 「なんか分からないけど、ここの決まり事だから守らないといけないらしいよ」くらい。 「お葬式」でも、「守らないといけない形式」みたいなものがあるけど、本当は、 故人に「今までありがとう、あなたの思いを受け継いでいきます」という思いがあれば、形式はなんでもいいはず。 そのような「形式」が必要になるということは、すでにみんなが「真心」を忘れてしまったという証拠だから、 「乱世の始まり」と言える。 また、そうやって「形式を守っていればいいんでしょ」という感じで、 見た目や行動は「良いこと」をしているように見えても、「知識」だけからそうしている人は、 「心」が伴っていないから、何の意味もない。 例えば「スピリチュアル」で、「知識」や「技術」はたくさん知っているし、 言っていることは正しいように聞こえるけど、 実際は「ビジネス」の為に「スピリチュアル」を利用しているだけ。みたいな。 そんなものはいつか見抜かれるし、たとえお金がたくさん稼げても虚しさしか残らない。 だから、本当に「タオ」を生きる人は、そんな表面上の華やかさなんかは求めないんだ。 例え誰からも注目されなくても、自分が信じた道を、真心こめて生きるんだ。 ◎第39章 昔之得一者、天得一以清、地得一以寧、神得一以靈、谷得一以盈、萬物得一以生、侯王得一以爲天下貞。其致之一也。天無以清、將恐裂。地無以寧、將恐廢。神無以靈、將恐歇。谷無以盈、將恐竭。萬物無以生、將恐滅。侯王無以貞、將恐蹷。故貴以賤爲本、髙以下爲基。是以侯王自謂孤寡不轂、此非以賤爲本耶、非乎。故致數譽無譽。不欲琭琭如玉、珞珞如石。 [書き下し] 昔(はじめ)の一(いち)を得(え)たる者(もの)。 天(てん)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て清(きよ)く、地(ち)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て寧(やす)く、神(かみ)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て霊(れい)に、谷(たに)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て盈(み)ち、万物(ばんぶつ)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て生(しょう)じ、侯王(こうおう)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て天下(てんか)を貞(と)う為(な)り。 其(そ)れ之(これ)を致(いた)すは、一(いち)なれば也(なり)。 天(てん)以(もっ)て清(きよ)きこと無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは裂(さ)けん。地(ち)以(もっ)て寧(やす)きこと無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは廃(くず)れん。神(かみ)以(もっ)て霊(れい)なること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは歇(や)まん。谷(たに)以(もっ)て盈(み)つること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは竭(つ)きん。万物(ばんぶつ)以(もっ)て生(しょう)ずること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは滅(ほろ)びん。侯王(こうおう)以(もっ)て貴高(きこう)なること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは蹶(たお)れん。 故(ゆえ)に貴(とおと)きは賤(いやし)きを以(もっ)て本(もと)と為(な)し、高(たか)きは下(ひく)きを以(もっ)て基(もとい)と為(な)す。 是(これ)を以(もっ)て侯王(こうおう)は自(みずか)らを孤(こ)・寡(か)・不穀(ふこく)と謂(い)う。此(こ)れ賤(いやし)きを以(もっ)て本(もと)と為(な)すに非(あら)ず耶(や)。非(あら)ざる乎(か)。 故(ゆえ)に誉(よ)を数(かぞ)うるを致(いた)せば誉(ほまれ)無(な)し。琭琭(ろくろく)として玉(たま)の如(ごと)きを欲(ほっ)せず、落落(らくらく)として石(いし)の如(ごと)し。 [意訳] 昔(はじめ)の一(いち)を得(え)たる者(もの)。 この世界の始まりは「一(タオ)(ワンネス)」のみであった。 天(てん)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て清(きよ)く、地(ち)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て寧(やす)く、神(かみ)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て霊(れい)に、谷(たに)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て盈(み)ち、万物(ばんぶつ)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て生(しょう)じ、侯王(こうおう)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て天下(てんか)を貞(と)う為(な)り。 天は「タオ」により澄み渡り、地は「タオ」によって安寧であり、神は「タオ」によって霊性を持ち、谷は「タオ」によって満ち溢れ、 全ての物は「タオ」から生まれ出てきた。王は「タオ」をもって、天下を治めた。 其(そ)れ之(これ)を致(いた)すは、一(いち)なれば也(なり)。 そうであったのは、全てが「ワンネス」であったから。 天(てん)以(もっ)て清(きよ)きこと無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは裂(さ)けん。地(ち)以(もっ)て寧(やす)きこと無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは廃(くず)れん。神(かみ)以(もっ)て霊(れい)なること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは歇(や)まん。谷(たに)以(もっ)て盈(み)つること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは竭(つ)きん。万物(ばんぶつ)以(もっ)て生(しょう)ずること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは滅(ほろ)びん。侯王(こうおう)以(もっ)て貴高(きこう)なること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは蹶(たお)れん。 もし天が清らかでなければ、裂けてしまうだろう。地が安寧でなければ荒廃してしまうだろう。神が「霊性」を失えば尽きるだろう、 谷が満たされることがなければ涸れてしまうだろう。万物が生じなければすべて破滅するだろう。 王たちが高貴でなければ国は倒れてしまうだろう。 故(ゆえ)に貴(とおと)きは賤(いやし)きを以(もっ)て本(もと)と為(な)し、高(たか)きは下(ひく)きを以(もっ)て基(もとい)と為(な)す。 「高貴」ということは「賤しいもの」を基盤にしており、全て高いものは低いものを基盤としている。 是(これ)を以(もっ)て侯王(こうおう)は自(みずか)らを孤(こ)・寡(か)・不穀(ふこく)と謂(い)う。此(こ)れ賤(いやし)きを以(もっ)て本(もと)と為(な)すに非(あら)ず耶(や)。非(あら)ざる乎(か)。 だから、優れた王たちは、自分のことを「孤(孤児)」とか「寡(独り者)」とか「不穀(ろくでなし)」と呼んだ。 これこそが、世間で「賤しい」と言われるようなものが、実は根本であるということの証明ではないか。そうではないか。 故(ゆえ)に誉(よ)を数(かぞ)うるを致(いた)せば誉(ほまれ)無(な)し。琭琭(ろくろく)として玉(たま)の如(ごと)きを欲(ほっ)せず、落落(らくらく)として石(いし)の如(ごと)し。 だから、やたらと栄誉を求めれば、逆に栄誉を失ってしまう。 キラキラとした宝石になることを求めず、その辺に落ちている石のようで居るのが良い。 [考察] そもそもこの世界は、「タオ」しか存在せず、「ワンネス」であった。 「タオ」から生まれた「天」は清らかで、「地」は安寧で、「神」と呼ばれるような力は霊妙で、「谷」は常に水に満ち溢れて、 そこからあらゆるものが生まれ、王たちは調和を持って国を治めた。 しかし、今の世界はどうだろう? 皆が「私が」「私が」という「自我」にまみれて、すっかり安らかさを失ってしまってはいまいか? 天は清らかさを失い、まるで裂けてしまったようだ。地は安らかさを失い、色々なバランスが崩れ、みんなが自然の中に見出した「神」は居なくなったようであり、 谷も水が涸れ、生み出されることがなければ滅びていくだろう。王も調和を忘れれば、倒れてしまう。 現代では、「王(政治家)」なんて言われると、それだけで「偉い」「立場が上」なんてことになっているけど、 全ては、「下」があるから「上」が成立する。 会社でも、「アルバイト」「平社員」が居るから、その上の「上司」が成立して、「幹部」「役員」が成立して、「社長・会長」が成立する。 「どちらが上、どちらが下」なんてことは無くて、「社長が居るから、社員で居れて、社員が居るから、社長でいられる」 「存在の価値」は「イコール」のはずなんだ。 だから、昔の優れた王たちは、自分のことを「孤児」とか「独り者」とか「ろくでない」なんて呼んで、偉そうぶらなかった。 […]