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[サイド090]「老子道徳経」考察013

☆[サイド090]「老子道徳経」考察013 ~「徳」の経~ ◎第37章 上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。上徳無爲、而無以爲。下徳爲之、而有以爲。上仁爲之、而無以爲。上義爲之、而有以爲。上禮爲之、而莫之應、則攘臂而扔之。故失道而後徳。失徳而後仁。失仁而後義。失義而後禮。夫禮者、忠信之薄、而亂之首。前識者、道之華、而愚之始。是以大丈夫、處其厚、不居其薄。處其實、不居其華。故去彼取此。 [書き下し] 上徳(じょうとく)は徳(とく)とせず。是(これ)を以(もっ)て徳(とく)有(あ)り。下徳(げとく)は徳(とく)を失(うしな)わざらんとす。是(これ)を以(もっ)て徳(とく)無(な)し。 上徳(じょうとく)は為(な)すこと無(な)きにして、而(しか)して以(もっ)て為(な)すとすること無(な)し。下徳(げとく)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して以(もっ)て為(な)すこと有(あ)りとする。 上仁(じょうじん)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して以(もっ)て為(な)すこと無(な)し。上義(じょうぎ)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して以(もっ)て為(な)すとする有(あ)り。 上礼(じょうれい)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して之(これ)に応(おう)ずる莫(な)し。則(すなわ)ち臂(うで)を攘(はら)って而(しか)して之(これ)を扔(ひ)く。 故(ゆえ)に道(みち)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に徳(とく)あり。徳(とく)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に仁(じん)あり。仁(じん)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に義(ぎ)あり。義(ぎ)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に礼(れい)あり。 夫(そ)の礼(れい)なる者(もの)は、忠信(ちゅうしん)の薄(うす)きにして、而(しか)して乱(らん)の首(はじめ)なり。前識(ぜんしき)なる者(もの)は、道(みち)の華(はな)にして、而(しか)して愚(ぐ)の始(はじ)めなり。 是(ここ)を以(もっ)って大丈夫(だいじょうぶ)は、其(そ)の厚(あつ)きに処(お)りて、其(そ)の薄(うす)きに居(お)らず。其(そ)の実(み)に処(お)りて、其(そ)の華(はな)に居(お)らず。故(ゆえ)に彼(あれ)を去(さ)りて此(これ)を取(と)る。 [意訳] 上徳(じょうとく)は徳(とく)とせず。是(これ)を以(もっ)て徳(とく)有(あ)り。下徳(げとく)は徳(とく)を失(うしな)わざらんとす。是(これ)を以(もっ)て徳(とく)無(な)し。 最上の「徳」を備えている人は、いちいち「徳」を意識しない。だからこそ、常に「徳」がある。 レベルの低い「徳」の人は、「徳」に執着して、いつも「良いことをしよう」としている。だからあまり「徳」とは言えない。 上徳(じょうとく)は為(な)すこと無(な)きにして、而(しか)して以(もっ)て為(な)すとすること無(な)し。下徳(げとく)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して以(もっ)て為(な)すこと有(あ)りとする。 最上の「徳」の人は自然とみんなにとって良いことをしながらも、いちいち「良いことをした」なんて言わない。 レベルの低い「徳」の人は、「良いことをしよう」と努力して、「これは私がやった」なんて言うから、「徳」とは言い難い。 上仁(じょうじん)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して以(もっ)て為(な)すこと無(な)し。上義(じょうぎ)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して以(もっ)て為(な)すとする有(あ)り。 「仁(慈悲)」を持った人は、自分が「良いことをした」なんて意識しない。 「義(義務)」を行う人は、どこかで「こうしなければいけない」という義務感からやっている。 上礼(じょうれい)は之(これ)を為(な)して、而(しか)して之(これ)に応(おう)ずる莫(な)し。則(すなわ)ち臂(うで)を攘(はら)って而(しか)して之(これ)を扔(ひ)く。 「礼(形式)」を為す人は、良いことをするけど、それに対して反応が無ければ、「お礼」を要求する。 故(ゆえ)に道(みち)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に徳(とく)あり。徳(とく)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に仁(じん)あり。仁(じん)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に義(ぎ)あり。義(ぎ)を失(うしな)いて、而(しか)して後(のち)に礼(れい)あり。 つまり、「タオ」から外れると「徳」が必要となり、 「徳」が失われると、「仁(慈悲)」が必要になり、 「仁」が失われると、「義(義務)」が必要になり、 「義(義務)」が失われると、「礼」が求められる。 夫(そ)の礼(れい)なる者(もの)は、忠信(ちゅうしん)の薄(うす)きにして、而(しか)して乱(らん)の首(はじめ)なり。前識(ぜんしき)なる者(もの)は、道(みち)の華(はな)にして、而(しか)して愚(ぐ)の始(はじ)めなり。 「礼」というものは、人の真心が薄れたから生まれたもので、「乱世」の始まりである。 「知識」から行動を起こす人は、「タオ」の華やかな部分だけを求めて行動するような人だから、愚かしい。 是(ここ)を以(もっ)って大丈夫(だいじょうぶ)は、其(そ)の厚(あつ)きに処(お)りて、其(そ)の薄(うす)きに居(お)らず。其(そ)の実(み)に処(お)りて、其(そ)の華(はな)に居(お)らず。故(ゆえ)に彼(あれ)を去(さ)りて此(これ)を取(と)る。 だから本当に立派な人は、「タオ」の真意を知り、その表面上のことに惑わされない。 「タオ」の核心に触れて、表面のきらびやかさに惑わされない。 だから、「幻想」を手放し、「真実」を生きるんだ。 [考察] 本当の「徳」というのは、全く意識せずに、その人が自分の思うがままに生きていたら、 それが人の役に立って、みんなからありがたがられるようなことを言うんだ。 たとえ人から、「ありがとうございます!」と言われても、「え?自分がしたいと思ったことをしただけですが?」くらいのもの。 世の中で言われる「徳の高い人」の多くは、「自我」の視点から、 「みんなに『良い人だ』という生き方をしよう!」と意識しているから、本当の「徳」とは言えない。 「仁」というのは、「人を思いやる心(慈悲)」だから悪いことではないけど、 それにはどこか、「人には優しくしなければいけない」という「ルール」みたいなものがあるから、「徳」とは言えないし、 「義」というのは、「人として生きるならこうでなければ」という「義務感」みたいなものがあるから、「思いやり」とも言えない。 「礼」というのは、「お互いに良いことされたら感謝しなきゃね」という「形式(取引)」みたいなものだから、さらに良いとは言えない。 そもそも、「タオ(ただそう在る)」を忘れてしまった世の中に、「徳(真心)」が必要になり、 「徳(真心)」が忘れられてしまって、「仁(思いやり)」が必要になり、 「仁(思いやり)」が忘れられてしまって、「義(義務)」が必要になり、 「義(義務)」が忘れられてしまって、「礼(形式)」が必要になる。 「礼」というものは、「こういう時はこうしなければいけない」という「形式」だけだから、 みんな、「心からそうしている」ことではない。 「なんか分からないけど、ここの決まり事だから守らないといけないらしいよ」くらい。 「お葬式」でも、「守らないといけない形式」みたいなものがあるけど、本当は、 故人に「今までありがとう、あなたの思いを受け継いでいきます」という思いがあれば、形式はなんでもいいはず。 そのような「形式」が必要になるということは、すでにみんなが「真心」を忘れてしまったという証拠だから、 「乱世の始まり」と言える。 また、そうやって「形式を守っていればいいんでしょ」という感じで、 見た目や行動は「良いこと」をしているように見えても、「知識」だけからそうしている人は、 「心」が伴っていないから、何の意味もない。 例えば「スピリチュアル」で、「知識」や「技術」はたくさん知っているし、 言っていることは正しいように聞こえるけど、 実際は「ビジネス」の為に「スピリチュアル」を利用しているだけ。みたいな。 そんなものはいつか見抜かれるし、たとえお金がたくさん稼げても虚しさしか残らない。 だから、本当に「タオ」を生きる人は、そんな表面上の華やかさなんかは求めないんだ。 例え誰からも注目されなくても、自分が信じた道を、真心こめて生きるんだ。 ◎第39章 昔之得一者、天得一以清、地得一以寧、神得一以靈、谷得一以盈、萬物得一以生、侯王得一以爲天下貞。其致之一也。天無以清、將恐裂。地無以寧、將恐廢。神無以靈、將恐歇。谷無以盈、將恐竭。萬物無以生、將恐滅。侯王無以貞、將恐蹷。故貴以賤爲本、髙以下爲基。是以侯王自謂孤寡不轂、此非以賤爲本耶、非乎。故致數譽無譽。不欲琭琭如玉、珞珞如石。 [書き下し] 昔(はじめ)の一(いち)を得(え)たる者(もの)。 天(てん)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て清(きよ)く、地(ち)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て寧(やす)く、神(かみ)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て霊(れい)に、谷(たに)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て盈(み)ち、万物(ばんぶつ)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て生(しょう)じ、侯王(こうおう)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て天下(てんか)を貞(と)う為(な)り。 其(そ)れ之(これ)を致(いた)すは、一(いち)なれば也(なり)。 天(てん)以(もっ)て清(きよ)きこと無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは裂(さ)けん。地(ち)以(もっ)て寧(やす)きこと無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは廃(くず)れん。神(かみ)以(もっ)て霊(れい)なること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは歇(や)まん。谷(たに)以(もっ)て盈(み)つること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは竭(つ)きん。万物(ばんぶつ)以(もっ)て生(しょう)ずること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは滅(ほろ)びん。侯王(こうおう)以(もっ)て貴高(きこう)なること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは蹶(たお)れん。 故(ゆえ)に貴(とおと)きは賤(いやし)きを以(もっ)て本(もと)と為(な)し、高(たか)きは下(ひく)きを以(もっ)て基(もとい)と為(な)す。 是(これ)を以(もっ)て侯王(こうおう)は自(みずか)らを孤(こ)・寡(か)・不穀(ふこく)と謂(い)う。此(こ)れ賤(いやし)きを以(もっ)て本(もと)と為(な)すに非(あら)ず耶(や)。非(あら)ざる乎(か)。 故(ゆえ)に誉(よ)を数(かぞ)うるを致(いた)せば誉(ほまれ)無(な)し。琭琭(ろくろく)として玉(たま)の如(ごと)きを欲(ほっ)せず、落落(らくらく)として石(いし)の如(ごと)し。 [意訳] 昔(はじめ)の一(いち)を得(え)たる者(もの)。 この世界の始まりは「一(タオ)(ワンネス)」のみであった。 天(てん)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て清(きよ)く、地(ち)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て寧(やす)く、神(かみ)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て霊(れい)に、谷(たに)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て盈(み)ち、万物(ばんぶつ)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て生(しょう)じ、侯王(こうおう)は一(いち)を得(え)て以(もっ)て天下(てんか)を貞(と)う為(な)り。 天は「タオ」により澄み渡り、地は「タオ」によって安寧であり、神は「タオ」によって霊性を持ち、谷は「タオ」によって満ち溢れ、 全ての物は「タオ」から生まれ出てきた。王は「タオ」をもって、天下を治めた。 其(そ)れ之(これ)を致(いた)すは、一(いち)なれば也(なり)。 そうであったのは、全てが「ワンネス」であったから。 天(てん)以(もっ)て清(きよ)きこと無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは裂(さ)けん。地(ち)以(もっ)て寧(やす)きこと無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは廃(くず)れん。神(かみ)以(もっ)て霊(れい)なること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは歇(や)まん。谷(たに)以(もっ)て盈(み)つること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは竭(つ)きん。万物(ばんぶつ)以(もっ)て生(しょう)ずること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは滅(ほろ)びん。侯王(こうおう)以(もっ)て貴高(きこう)なること無(な)ければ将(は)た恐(おそ)らくは蹶(たお)れん。 もし天が清らかでなければ、裂けてしまうだろう。地が安寧でなければ荒廃してしまうだろう。神が「霊性」を失えば尽きるだろう、 谷が満たされることがなければ涸れてしまうだろう。万物が生じなければすべて破滅するだろう。 王たちが高貴でなければ国は倒れてしまうだろう。 故(ゆえ)に貴(とおと)きは賤(いやし)きを以(もっ)て本(もと)と為(な)し、高(たか)きは下(ひく)きを以(もっ)て基(もとい)と為(な)す。 「高貴」ということは「賤しいもの」を基盤にしており、全て高いものは低いものを基盤としている。 是(これ)を以(もっ)て侯王(こうおう)は自(みずか)らを孤(こ)・寡(か)・不穀(ふこく)と謂(い)う。此(こ)れ賤(いやし)きを以(もっ)て本(もと)と為(な)すに非(あら)ず耶(や)。非(あら)ざる乎(か)。 だから、優れた王たちは、自分のことを「孤(孤児)」とか「寡(独り者)」とか「不穀(ろくでなし)」と呼んだ。 これこそが、世間で「賤しい」と言われるようなものが、実は根本であるということの証明ではないか。そうではないか。 故(ゆえ)に誉(よ)を数(かぞ)うるを致(いた)せば誉(ほまれ)無(な)し。琭琭(ろくろく)として玉(たま)の如(ごと)きを欲(ほっ)せず、落落(らくらく)として石(いし)の如(ごと)し。 だから、やたらと栄誉を求めれば、逆に栄誉を失ってしまう。 キラキラとした宝石になることを求めず、その辺に落ちている石のようで居るのが良い。 [考察] そもそもこの世界は、「タオ」しか存在せず、「ワンネス」であった。 「タオ」から生まれた「天」は清らかで、「地」は安寧で、「神」と呼ばれるような力は霊妙で、「谷」は常に水に満ち溢れて、 そこからあらゆるものが生まれ、王たちは調和を持って国を治めた。 しかし、今の世界はどうだろう? 皆が「私が」「私が」という「自我」にまみれて、すっかり安らかさを失ってしまってはいまいか? 天は清らかさを失い、まるで裂けてしまったようだ。地は安らかさを失い、色々なバランスが崩れ、みんなが自然の中に見出した「神」は居なくなったようであり、 谷も水が涸れ、生み出されることがなければ滅びていくだろう。王も調和を忘れれば、倒れてしまう。 現代では、「王(政治家)」なんて言われると、それだけで「偉い」「立場が上」なんてことになっているけど、 全ては、「下」があるから「上」が成立する。 会社でも、「アルバイト」「平社員」が居るから、その上の「上司」が成立して、「幹部」「役員」が成立して、「社長・会長」が成立する。 「どちらが上、どちらが下」なんてことは無くて、「社長が居るから、社員で居れて、社員が居るから、社長でいられる」 「存在の価値」は「イコール」のはずなんだ。 だから、昔の優れた王たちは、自分のことを「孤児」とか「独り者」とか「ろくでない」なんて呼んで、偉そうぶらなかった。 […]

[サイド089]「老子道徳経」考察012

☆[サイド089]「老子道徳経」考察012 ◎第33章 知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽。 [書き下し] 人(ひと)を知(し)る者(もの)は智(ち)なり。自(みずか)らを知(し)る者(もの)は明(めい)なり。 人(ひと)に勝(か)つ者(もの)は力(ちから)有(あ)り。自(みずか)ら勝(か)つ者(もの)は強(つよ)し。 足(た)るを知(し)る者(もの)は富(と)む。強(つと)めて行(おこな)う者(もの)は志(こころざし)有(あ)り。 其(そ)の所(ところ)を失(うしな)わざる者(もの)は久(ひさ)し。死(し)して而(しか)も亡(ほろ)びざる者(もの)は寿(ひさ)し。 [意訳] 人(ひと)を知(し)る者(もの)は智(ち)なり。自(みずか)らを知(し)る者(もの)は明(めい)なり。 人(ひと)に勝(か)つ者(もの)は力(ちから)有(あ)り。自(みずか)ら勝(か)つ者(もの)は強(つよ)し。 人のことを理解できる人は知識があると言える。でも自らを理解できている人は、さらに明晰と言えよう。 人に勝つことができる人は力があると言える。でも自分に勝つことができる人は、さらに強いと言える。 足(た)るを知(し)る者(もの)は富(と)む。強(つと)めて行(おこな)う者(もの)は志(こころざし)有(あ)り。 「自分がすべてを持っている」と分かっている者はさらに富む。 コツコツと努力する人は、自分が進むべき道が見えてくる。 其(そ)の所(ところ)を失(うしな)わざる者(もの)は久(ひさ)し。死(し)して而(しか)も亡(ほろ)びざる者(もの)は寿(ひさ)し。 この基本を見失わない者は末永く生きることができるし、たとえ肉体が滅びても、その「命」は続いていく。 [考察] 人のことを理解できるのは、「知識・教養がある」と言える。 でも、多くの人は分かっているようで、一番自分のことが分かっていない。 多くの場合、「私はこういう人間である」と思っているのは、 「他人からの評価」だったり、学校の成績や社会での「他人との比較」から、 「私はこういう人間である」と思い込んできたもの。 そうではなくて、「あるがままの自分」、肩書とか立場とか社会的な役割とか、誰か、何かとの比較をのけて、 ただ純粋に、「私はこう感じている」「私はこういうことがしたい」ということが分かっている人は、 さらに「明晰」だと言える。 人と勝負して勝てる人は「力がある」とは言える。 しかし、それも「他人との比較」であって、場所が違えば、もっと「力のある人」が居て、負けることもあるかもしれない。 でも、自分が「こうしよう」とか「こうしてみたい」とか「こうするべき」と感じたことを、 「自分との約束」を破らずに、守り続けることができる人は、 さらに「強い人」と言えるだろう。 そうやって、「明晰」で「強い人」は、自分や環境を「足りない」なんて言わない。 たとえ、一般的に見て、例えば「社交性が足りない」とか「理系が弱い」としても、 まずは、その「私の特性」を見極めて、「じゃあどうしたらこんな私を生かしていけるか?」を常に考えているから、 そして、「足りない部分」を補うよりも、まずは自分の「持っている部分」を知って、それをさらに強化できるから、強みを持てる。 また、意識的にも、「足りない」「欲しい」と思っていれば、その通りに、 「何かが足りなくて、手に入れないといけない」という現実を見続けることになる。 あなた自身が「私に足りないものは無い、今のままで完璧だ」という視点から、 「じゃあ、今から私ができることは?」と目の前のことに精いっぱいやっていけば、色々な意味で豊かさが生み出せる。 「足りない」ことにフォーカスして欲しがるのではなく、 「今持っているもの」を見て、それを100%生かすことにフォーカスしていこう。 そうやって、「自分を見つめて生かす」ということにコツコツ努力できる人は、 どんな場面でも、「自分が今できること」が分かっているから、自然と志が湧いてくるし、迷うことが少なくなる。 そうやって「自分の持っているものを見つめ続けて、生かす」という基本を忘れない人は、どんな時も生き生きとしているし、 例え肉体が無くなっても、その精神はその人と接した人の中で生き続ける。 ◎第34章 大道汎兮、其可左右。萬物恃之而生而不辭。功成而不名有。愛養萬物、而不爲主。常無欲、可名於小。萬物歸焉、而不爲主、可名於大。是以聖人、終不自大、故能成其大。 [書き下し] 大道(たいどう)は氾(はん)として、其(そ)れ左右(さゆう)す可(べ)し。 万物(ばんぶつ)之(これ)を恃(たの)みて生(しょう)ずれども辞(ことば)せず。功(こう)成(な)りて名(な)有(あ)りとせず。万物(ばんぶつ)を愛養(あいよう)すれども主(あるじ)と為(な)さず。 常(つね)に無欲(むよく)なれば、小(しょう)と名(な)づく可(べ)し。万物(ばんぶつ)之(これ)に帰(き)すれども主(あるじ)と為(な)さざれば、名(な)づけて大(だい)と為(な)す可(べ)し。 是(これ)を以(もっ)て聖人(せいじん)は、終(つい)に自(みずか)ら大(だい)とせざるが故(ゆえ)に能(よ)く其(そ)の大(だい)を成(な)す。 [意訳] 大道(たいどう)は氾(はん)として、其(そ)れ左右(さゆう)す可(べ)し。 大いなる「タオ」はこの世にあふれていて、あちらこちらに存在する。 万物(ばんぶつ)之(これ)を恃(たの)みて生(しょう)ずれども辞(ことば)せず。功(こう)成(な)りて名(な)有(あ)りとせず。万物(ばんぶつ)を愛養(あいよう)すれども主(あるじ)と為(な)さず。 全てのものはこの「タオ」から生まれてくるけれど、それを言いふらしたりはしない。 功績があっても、名乗らないし、万物を愛し養っているけれど、「私が主人だ」なんていわない。 常(つね)に無欲(むよく)なれば、小(しょう)と名(な)づく可(べ)し。万物(ばんぶつ)之(これ)に帰(き)すれども主(あるじ)と為(な)さざれば、名(な)づけて大(だい)と為(な)す可(べ)し。 常に無欲であれば、世間では「小者」と思われるかもしれないけど、 全てのものがそれに帰属するのに、「主人である」と言わないような人は、「大物」だと言うべきである。 是(これ)を以(もっ)て聖人(せいじん)は、終(つい)に自(みずか)ら大(だい)とせざるが故(ゆえ)に能(よ)く其(そ)の大(だい)を成(な)す。 だから、「聖人」と言われるような人は、自分で「私はすごい」なんて言わないし、そんな態度もとらないからこそ 逆に「大きなこと」も達成できる。 [考察] 「タオ」はこの世界に「遍在(すべてに浸透)」していて、万物を生み出しているし、 あらゆる功績があっても名乗らないし、全てを愛し養っているけれど、 「私が主人だ」なんてことは言わない。 それと同じように、人が「タオに生きる」ということは、 この世界の「流れ」に従って生き、その流れる「エネルギー」を借りて色々なことを達成するかもしれないけど、 それをいちいち自慢したり、「私がやった」なんてことは言わない。 そういう余計なことを言えば、疎まれるし、嫉妬されるかもしれないし、反発を生んで、動きにくくなってしまう。 「出る杭は打たれる」けど、「出ない杭は打ちようがない」。 その人があまりに無欲で、何もアピールしなければ、世間では 「あの人は大人しくて何もしてない(ように見える)」と思われて、 「大した人ではない」と言われるかもしれないけど、 本当はそんな人こそ、「偉大な人」と言われるべきである。 「タオを生きる人」というのは、たとえすごいことをしていたとしても、 「この人は凄い人だ」なんて思われもしないからこそ、余計なプレッシャーや、反発を生まないし、 「私が!」なんて思わずに、「タオ」の流れに任せられるので、 「大したことのない人」なのに、「大した人」よりもすごいことを達成したりする。 ◎第35章 執大象、天下往。往而不害、安平太。樂與餌、過客止。道之出言、淡乎其無味。視之不足見。聽之不足聞。用之不足既。 [書き下し] 大象(たいしょう)を執(と)りて、天下(てんか)を往(ゆ)けば、往(ゆ)きても害(がい)あらず。安(あん)、平(へい)、大(たい)なり。 楽(がく)と餌(じ)とは過客(かきゃく)も止(とど)まる。 道(みち)の言(げん)に出(い)だすは、淡乎(たんこ)として其(そ)れ味(あじ)わい無(な)し。 之(これ)を視(み)るも見(み)るに足(た)らず、これを聴(き)くも聞(き)くに足(た)らず。これを用(もち)うるも既(つく)す可(べ)からず。 [意訳] 大象(たいしょう)を執(と)りて、天下(てんか)を往(ゆ)けば、往(ゆ)きても害(がい)あらず。安(あん)、平(へい)、大(たい)なり。 「タオ」として世界を生きれば、どこへ行こうと「問題」も無く、安心、平和でおおらかで居られる。 楽(がく)と餌(じ)とは過客(かきゃく)も止(とど)まる。 素晴らしい音楽やご馳走があれば、行きかう人も足を止める。 道(みち)の言(げん)に出(い)だすは、淡乎(たんこ)として其(そ)れ味(あじ)わい無(な)し。 でも、「タオ」のことを言葉にしてみても、派手さが無いから味気ないように感じるだろう。 之(これ)を視(み)るも見(み)るに足(た)らず、これを聴(き)くも聞(き)くに足(た)らず。これを用(もち)うるも既(つく)す可(べ)からず。 見ようとしても見えない、聞こうとしても聞こえない。 だけど、これを用いれば、使い切れないほど無尽蔵のエネルギーである。 [考察] 「タオ」、つまり「ビッグバン」で「宇宙」が生まれる前の「塵」のような、 「何者でもない私」、「肩書やプライド、思い込みから解放された私」 として生きることができれば、どんな時も、どんな場所でも、 「その時に必要な私」に適応できるので、問題やストレスを抱えることは無い。 例えば、「私は◎◎の日本一です!」と名乗れば、常に、 「日本一とはどんなもんだろう?見せてもらう」 「日本一なら、さぞすごいんだろうね」と高い期待をされるので、プレッシャーもすごいし、 常にその座を狙われるから、気が休まる時が無い。 しかし、「何者でもない私」で居れば、誰からも注目されないし、自由に生きることができる。 全ての「ストレス」は「こうでなければいけない!」と自分が決めるから、 […]