[読んだ本006-1]「真・かんながら」阿部敏郎 考察[1]

☆[読んだ本006-1]「真・かんながら」阿部敏郎 考察[1]

さて今回は、「悟り」系の本で、阿部敏郎さんの「真・かんながら」をレビュー考察したいと思います。

この本は、著者である阿部敏郎さんの半生の半ドキュメンタリー?半小説的な物語で、

「A」さんが音楽業界で仕事をしていたところから、「一瞥体験」を経て、「天河神社」との奇妙な縁。

突然インドへ旅立つことになったことから・・・「目覚め」を迎え、「本当の自分(神の意識?)」との対話をします。

最後の方のその「本当の自分との対話」から、「A」さんが取材に来た記者との会話の中で語ったことが、非情に良かったので、抜粋して、考察したいと思います。

◎「物語」の中を生きる

今にいるかそれとも今以外にいるか、可能性は2つしかない。

今以外とは思考が作り出す世界のことであり、たとえ人類を救済する内容だとしても、それはマインドの物語に過ぎない。
あらゆる人は、無意識に物語の世界を生きてしまう。

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私たちは、「今を生きている」と思いこんでいるけれど、

例えば、目の前で「誰かがしゃべっている」という「現実」を見ていても、

無意識のうちに「この人こんな髪型だったっけ?この人この話好きねえ。この人はあの人よりも賢いな・・・」

という感じで、自分の中の「過去のデータ」と比較したり、判断しながら話を聞いている。

そしてその話の内容に対しても、「それはあまり聞きたくない。なんか私のこと批判してる?・・・」という感じで、

純粋に「今」を体験していない。

一度「自分・私」というフィルターを通して、世界を見ている。

分かりやすい例で言うと、自分の子供や親せきのお子さんを見るとき、もう20歳になっても、

子供の頃のようなイメージでその子を見るので、

「この子、こんな大人なこと言うようになったの?」とビックリするような。

つまり、そういう「比較・判断」をしているときは、「今」を見ているのではなく、

「過去と比較した今」という「物語」を見ている。

それを「今」を「直接体験」していない。と言われる。

◎「世界」は一つではない。

その世界は1人ずつの創作であり、同じものは2つとしてない。
なのに人々は、みんなが同じ世界に住んでいると思っている。だから、毎日のように関係に軋轢が生じるのだ。

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先ほどのように私たちはみんな、漏れなく「私」というフィルターを通してしか世界を見ていない。

だから、過去の話をした時に、人が言っている「あの時の話」が

「え?そんなことあったっけ?」と「記憶違い」が起こってくる。

でも、それはその人にとっては「真実」であり「正しい記憶」だけど、

誰しもが、その「起こったこと」に「イメージ」「気持ち」「思考」などを重ねて、

「あの人なら、こんなことを言ったに違いない」「私は批判されたんだ」という感じで

「記憶」というものを創り上げるから、それぞれの「オリジナルストーリー」になっていく。

だから、なかなか分かり合えない。

しかし、「そういうものだ」ということを理解しておけば、「誰が何を言っていようと、私には何の関係もない」と囚われない生き方ができる。

◎人は「世界」を固定する

人が作った世界には、見えるすべてのものに名前が付いていて、これはこうで、あれはこうだと言う自分なりの判断が下されている。そうやって作った世界は、表面的に動き続けてはいるが、その世界を構成する要素は固定されたままだ。

世界を構成する要素とは、例えば、自分を含めた登場人物のキャラ、善悪の基準、何が重要かの価値観、起きていることへの解釈などだ。

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これが、僕が今までにも書いたことのある、「なぜかいつも同じ役割になる」ということが起こる原因。

小学校から中学校、高校と上がっていっても、いつも「Aさん(に似たタイプの人)」が居て、「Bさん(に似たタイプの人)」がいて、

いつの間にか、自分がその間を取り持つ役割になっていたり、いつも遠慮して、自分のことを主張できない立場になっていったり・・・

環境を変えれば、違う自分になれると思ったのに、場所を変えても同じだった・・・みたいな。

それは、自分自身の中の「思い込み」が強いだけ。

家族の中や、小学校の中で、「自分勝手な人(Aさん)」が居たり「引っ込み思案の人(Bさん)」が居て、その中で「自分」という立場を見出していく。

すると、違う環境になっても、無意識のうちに「ああ、この人はAさんタイプの人ね」「この人はBさんぽい」と「カテゴライズ」することで安心する。

そのために、人が変わろうが、場所が変わろうが「同じような人」が揃っていく。

これが「表面的に動き続けてはいるが、その世界を構成する要素は固定されたままだ。

ということ。

しかし、「現実」という者は、常に変化していっている。

「川」が例えば、「長良川」が目の前に流れている。すると人は「目の前に長良川が流れている」と言うが、

その「長良川」は常に「さっきとは違う水」が流れている。

つまり、常に「長良川」は変化し続けているけど、「岐阜県のここに在る川は長良川だ」と固定して見ている。

「Aさん」だって、その瞬間その瞬間に「違う人」と言ってもいいくらい変化しているかもしれないのに、

「Aさんはこういう人」と決めることで、純粋に「Aさん」を見れなくなっていく。

ただ単に、「Aさん」が時によっていうことが変化しているだけなのに、

「Aさんらしくない」「なんか裏があるんじゃ?」「きっと皮肉なんでしょ」と勝手な「判断」で見てしまう。

そして、「Aさんに苦労する日々」を生き始めてしまう。

◎真理は「今生まれている」

しかし、真理は今、まさに新しく生まれ続けていて、何一つ固定されたものはなく、名前をつけられるものもない。名前をつけると言うのは、それを固定したと言うことだ。人は、皆、そのように、自分で決めつけた世界に住んでいるのだ。

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これはなかなか信じられない概念かもしれませんが、

「現実」は「いま、まさに新しく生まれ続けている」ということ。

例えば、「同じ人が同じように頑張っても、成功する時も成功しないときもある」

という風に、実は「原因と結果の法則」が成り立たない場合もあるし、成り立つときもある。

この世界は私たちが想像できないような膨大な「縁」「関係性」「影響」などが重なり合って、「ことが起こっている」。

例えば、「新型コロナ騒動」というもの。これは「誰かが何かをしたから起こった」ことなんだろうか?

もちろん世の中には「アメリカの製薬会社の陰謀で」「中国の陰謀で」・・・という話をする人もいるけど、

それだとしても、「じゃあなぜ、そのアメリカの製薬会社はそんなことをしようと思ったのか?」

「なぜお金を儲けるためにそんなことを?」「アメリカの経済がヤバいから」

「じゃあ、なんでそんな風にヤバくなったの?アメリカ人が悪いことをしたから?」・・・

という風に、「原因」を探ろうとしても、キリが無いし、「AをしたからBになる」という単純なものではない。

それならば、みんなが同じことをして、同じ結果を出して、みんな「豊かで幸せ」になっているはず?

ここから書くことは、実証できないし、信じられない話かもしれないけど、

常に「現実」は「今この瞬間」に新しく生まれていて、その何の関連性もない出来事を、

私たちの「脳」が勝手につなぎ合わせて、「ストーリー」を作っていっているだけだとしたら?

川の上流から、「柿」が流れてきた。しばらくして、「穴の開いた服」が流れ来た。

「まさか、誰かが柿を投げて、服に穴をあけた!?」と「ストーリー」を創り上げる。

しかし、真実は、上流に柿の木があって、熟した実が川に落ちた。ちょうど同じころ、服が破れたから川に服を捨てた人が居た

だけかもしれない。

私たちは、「上流(未来)」から流れてくる「出来事(物)」を勝手に結び付けて、「過去」の経験や情報を参照して、

「これが起こったのは、これが原因だ」と言っているだけかもしれない。

だから、あなたの人生に「それ」が起こっているのは、あなたの責任ではないし、あなたの価値や、素晴らしさとは何の関連性もない。

逆に言えば、例えば「失恋」があったとする。

多くの人は、「私があんなことを言ったから」「私が魅力的ではないから」と、「過去」や「思い込み」に「原因」を見出そうとする。

しかし、それが、「次に出逢う人と最高の恋をするため」に起こったとしたら?

「未来」が原因で、その「未来」に進むために「いま」が起こったとしたら?

「いま」の意味が全く変わってきませんか?

◎すべてが必要

目覚めたときに人が知るのは、それまでの人生に起きたあらゆる事は、何一つ、無駄もなく、偶然もないと言うことだ。
ありとあらゆる事は、人類の目覚めのために起きている。

そしてその目覚めを先導するのが日本に暮らす民であり、さらにその民を先導するには完全に目覚めた者たちが必要だ。

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これは色々な「悟りを開いた」とされる人や、「臨死体験」をした方の話などを読むと、みんな、

「この気づきを得るためには、今までの全てが必要だった」

「今までの出来事がなければ、私はこの場所に来ることはなかった」

という風に、「全てが導かれていたとしか言えない」ということをおっしゃってます。

「苦しみ」を知らなければ、苦しんでいる人に同情して、「やさしさ」「救い」を手渡そうとは思えない。

「悲しみ」を知らなければ、本当の「喜び」も「当たり前のありがたさ」にも気づけない。

現状のあなたにどんな「現実」が現れているように見えるとしても、

それこそが、あなたにとって一番効果的に「自分(の素晴らしさ)」に気づくための「演出」だとしたら?

そして、この本もそうだし、過去の「神秘家」「覚者」が揃って「日本」に対して発言している。

「予言書」と言われる「日月神示」でも、この本(真・かんながら)に書かれている「OSHO」にしても、

これからの時代の「目覚め」のために、「日本の生まれ変わり(復興)」が重要な役割を果たすという。

そして、そのためには、この本のもっと後に書かれているけど、

まず、あなたが「目覚める」こと。

「過去」や「思い込み」や「ストーリー」にとらわれずに、

全ての瞬間で、「これは未来のために必要なことが起こっている。」

「私は愛されていて、最高に向かうために生かされている」と信じること。

常にリラックスして、目の前の体験を「判断する」のではなく、「直接体験」する。

起こっていることをそのまま受け取る。