Author: tomohito

[メイン2-001]この世界の仕組みと本当の引き寄せ[1]

☆[メイン2-001]この世界の仕組みと本当の引き寄せ[1] さて、ここ最近毎日Instagramの方で「気づき」を投稿していたので、 なかなかまとまって書くことが無かったんですが、改めて、この世界の仕組みや「本当の引き寄せ」について、一から書いてみようと思います。 これまでの記事などの「総まとめ」という感じでもあるので、「メインコンテンツ」の「第2弾」という感じで書いていきたいと思います。 この仕組みを知れば、あなたも苦しみから解放されるかも。 ◎この世界の仕組み さて、ここから書くのは何の証明もできないし、「これが正しい!」とも言いませんが、僕個人的にはこれだと感じているし、 あなたが信じられないとしても、「こう考えたほうが色々納得できる」という内容なので、「信じるか信じないか?」ではなくて、「こういう考え方もあるよ」という感じで読んでみてください。 まず、この世界には「命(神)」だけが存在しました。それは何か人とか生物とかいうものではなく、「意志(意識)」みたいなものだけが存在しました。 これはおそらく、あなたが眠りに落ちる瞬間に、意識はあるけど、自分が何者か分からなくなる瞬間、「自分」という存在を感じてはいるけど、自分が何を考えていたかもわからなくなるような感覚。 あれが、「命(神)」そのものの感覚と言っても良いと思います。 完全な「至福」だけれども、「何もない」状態。 例えば、あなたがずっと、あの状態だったとしたら、どう思い始めますか? もしあなたが、今、全く真っ暗で周りに何も光も音も感触も動きも無くて、ただ一人で何十億年と存在し続けるとしたら? おそらくあなたは、「頭(意識)」の中で、何かを思い浮かべ始めるんじゃないでしょうか? 私たちが「生きているこの世界」が、「命(神)」が「頭の中で思い浮かべた想像の世界」だとしたら? 「悟りを開いた」人達は口を揃えて言います。 「この(現実)世界は『命の見ている夢』みたいなもの」「『全体(命)』が私たちを生きている」 「悟りが開く」体験をした人は、「私という個人は存在していなくて、『全体』のみが存在している。その『全体』が『自我』によって、『私』という個人を体験している」 ということを「実感」するそうです。まるで、私たちが、眠っていて夢を見ていて、パッと目が覚めて「ああなんだ、夢だったのか」と感じるときのように。 ◎「真面目」に生きる世界ではない だから、あまり良い言い方ではないけど、この世界は「命の暇つぶし」だと言える。 昔からこの世界のことを「神々の戯れ(リーラ)」と呼ぶのはそういうこと。 だから、「真面目に、深刻に」生きる必要はない。生きようが死のうが所詮「ヒマつぶし」だし、「命の妄想」だとも言える。 前にも言ったけど、「超リアル、超上級『キッザニア』」みたいなもの。 「命」が「私」を使って、色々な体験をしに来ている。たくさんの「私」を使って、超リアル「即興劇」をしている。 そう考えると、この世界の一見「理不尽」だったり、「なんであえてこんなことをしないといけないの?」と感じるようなことも理解できると思う。 本当はする必要もないのに、「あえて、やりにきている」世界だから。 だから、僕はよく「ゲーム」に例える。 「ゲーム」なんて別にやる必要はないのに、「あえて、ややこしい設定や目標を立てて、それを解く」。 タダの遊びなのに、みんなハマり出すと、ときには「殺人事件」につながるような時もある。 それほどゲームにはまっていない人からすると、「所詮ゲームなのに、そんなに真剣になるの?」と思うだろうけど、 この世界全体が本当はそういうこと。だから、「悟りが開けた」人はみんな、「この世界の仕組みを知ったらあなたはきっと大笑いする」と言う。 だって、「本当はやる必要もないことを、わざわざやりに来て、あえて難しいことに挑戦して、時には絶望して、自殺したり、殺し合いもしたり、奪い合いもしたり、所詮ゲームなのに」。 だから、「悟りを開く」と、それに「巻き込まれなくなる」という。 「この世界は所詮『命』のプレイしているゲーム」なんだから、「ゲームでどんな結果が出ようと、私という存在には何の影響ももたらさない」と知っている。 あなたも、友人や子供たちが、ゲームをやっていて、そのゲームで負けたからと言って、 「終わった!最悪や!」とコントローラーを叩きつけている姿を見たら、「いやいや所詮ゲームなのに、そんな本気になる?」と感じると思う。 この世界の中で、みんながやっているのはそういうこと。「ゲーム」にあまりにも本気になり過ぎている。 だから、もっと気楽に生きようということ。 ◎「自我」の仕組み そして、「命」が「私」という「分離した個人」を体験するためには、「自分自身(全体)を忘れて、分離した、『私』そして『他人』を創り出す(存在すると勘違いさせる)システム」が必要でした。 それが「自我」というシステムです。 ↑の図のように、「命」から「私」がポコッと出てきている感じ。本当は根本ではみんなつながっているけど、みんなそれに気づけないようにできている。 そして、「私!」という思いが強いほど、「分離」を強めて、「命」とのつながりが薄くなるから、生きるのが苦しくなってしまう。「ひらめき」や「直感」も受け取りにくくなる。 「私!」という「思考」や「思い込み」によって、本当は「命」と繋がっている「パイプ」みたいなものが詰まってしまって、いよいよ「孤立」している状態になる。 「他人」とのつながりも作りにくくなり、周りが「敵」ばかりのようになっていく。 基本的に「自我」というのは、「私は他の人とは違う!」という意識で、「私の方が優れている」とか、「私の方が正しい」と「比較分類」して、自分の「優位性」を主張する。 そのことによって、色々な「ストーリー」が創り出される。 もし、みんながみんな「私たちは一つです」という意識に目覚めていれば、何の競争もハプニングも起こらず、「みんな幸せ」だけになって、「ワンネス」と同じことになってしまう。何もストーリーが生まれない。 これも僕がよく言う「2時間のずっと何も起こらず平和な映画」を見ていられないように、 それでは「命の暇つぶし」にならないから、「分離」「差別化」「競争心」「自己顕示欲」「自己承認欲求」などが必要になる。 だから、この社会を生きるには「自我」が必要なツールだけど、それに溺れてしまうと、世界が敵になってしまう。 なので、本来の仏教やキリスト教などでは、その「自我」をできるだけ回避する生き方を目指す。それが仏教の「解脱」であり、キリスト教の「赦し」です。 ◎「解脱」や「赦し」とは? 結局、仏教の「解脱」やキリスト教の「赦し(奇跡)」とは何を目指しているのか? それは、「『私』から解放される」ということ。 先ほども書いたように、「私」「私が(しなければ)」「私は(こうあるべき)」という「思い込み」が強くなっていくと、 その「私のルール、常識」に反するものは「敵」になっていきます。 仏教の「解脱」は一般的に「輪廻」の輪から抜けること。と説明されていますが、 これまた一般的には「輪廻(転生)」とは、「今世の行いによって、来世の生まれ変わる世界が決まる・・・」的な話になっていますが、 これは、本来の仏教の「そもそも私という個人は存在しない(つまり、来世の個人的な特定の私も存在しない)」という考え方に反します。 特定の「私(僕ならトモヒト)」という個人が、また来世も(前世トモヒトだった個人的存在の魂?として)生まれ変わっているのではなくて、ただ、常に「命」から全く新しい人が生まれてきているだけ。 その生まれてきた時に、「命」の中に存在する色々な「性質・癖(カルマ)」を拾ってくる。それが「生まれ持った性質」になるだけ。 僕が一番「これがしっくりくる」と感じる「輪廻」の説明は、「(六道)輪廻」というのは、この世界には「天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道」の六道(6つの世界、次元)が存在して、 来世にそこに行くのではなく、今世の中で、時によって、人によって、(心の在り方として)「天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道」を行ったり来たりする。 全てを「許す・赦す」ことができて、全てを受け入れられるなら、この世界は「天界」にも見えるし、 「私」をどんどん強化して、「こうでなければいけない!」「こうあるべきだ!」と強く握りしめれば、世界は、生きにくく、辛い「地獄界」に見えてくる。 「輪廻」からの「解脱」とは、その「私!」という物から解放されて、「全てを許し、受け入れて生き始める」ということ。 そう、結局「天国」も「地獄」も自分が(自分の頭の中で)創り出すもの。 ◎「私」から解放されるって? そして、その「私から解放される」というのは、 「今まで握りしめてきた、思いこまされてきた、この世界に対するイメージを手放す」ということ。 私たちは、どうしても無意識のうちに、赤ちゃんの頃から、両親や周りの環境によって、「私はこういうもの、世界はこういうもの」と思い込まされてきた。 それは、決して「悪いこと」ではないけれど、「自我」によるものが大部分。 つまり「私は、この世界で(命・愛から)分離していて、頑張って自分の力で生きていかなければいけない」という感じ。 そうなると、世界は常に油断できない、常に頑張り続けないといけない世界のように見えてくる。 それが「修羅道」や「畜生道」と言われるような世界。 そういう「思い込み」に気づいていく事。無意識のうちに「この世界はこうだから、こうやって頑張らないと、上手くいかない」と勝手に考えていることに気づくこと。 本当はもっと、簡単に、あなたに最適な道もあるのに、それに気づけずに生きている。 だから、そういう「こうだから、こうしなければいけない」という思いに気づいたら、それを疑ってみる。そうしなくても、上手く生きれるかもしれない。 あらゆる可能性を捨てずに、色々と挑戦してみること。その積み重ねで人生は徐々にでも変わっていく。 まず初回は、ザーッと、この世界の仕組みの大枠を解説してみました。次回に続きます。  

[サイド101]「老子道徳経」考察まとめ1

☆[サイド101]「老子道徳経」考察まとめ1 さてここまで「老子道徳経 全81章」を超訳+考察してきましたが、 締めくくりとして、「老子道徳経」に書かれていたポイントを私たちの生活の中で生かせるように、僕なりにまとめておきます。 ◎「タオ」とは? さて「老子道徳経」は、「道(タオ)」とそれにまつわる「徳」について、解説されています。 その「タオ」とは、最初の方に書かれているように「それは言葉では言い表せない」ことであり、 この世界の「生まれる源」であり、「摂理・法則」であり、「エネルギーの流れ」のようなものでもある。 「老子道徳経」の中には、その関係性などが詳しく解説されているわけではないので、あくまで僕の解釈だが、 「玄の玄」がいわゆる「神(大いなる存在)」と呼ばれるようなもので、「神」として良く描かれるような髭のおじさんのような姿を持っているわけではなく、純粋な「意識・意志」のような存在? 「玄」はその「神」が創り出した「場」。ステージのようなもの。「タオ」はこのステージの中に満ちている「エネルギー(塵)」であり「摂理・法則」。 そのステージ上に、「神」からの「意志」みたいなものが流れてきて、「タオ」を通して、その「摂理・法則」に従ってエネルギー(縁)が働き、万物がかたどられ、「妙」つまりステージ上の「演劇」が始まる。 そして、そのステージ上の「演劇(妙)」を見ている観客が私たち「個人の意識」であり、その「個人」がそれぞれの「概念」のフィルターを通して、 「演劇」を見ながら感じる「感情」や「ストーリー」が「徼」である。 「タオ」は「純粋なエネルギー」であり、「摂理・法則」であるから、そこに「意志」は無く、 「玄の玄」から送られてきた「意志」をそのまま「摂理・法則」を通して、ステージ上に現出させているだけ。 だから、時にやさしく、時に残酷なほど冷酷でもあるように感じる。 しかし、これだけ科学や医学が発達した世の中でも、いまだに解明されていない、 「命はどこにあって、どんな作用で、この肉体を100年近く動かし続けるのか?」という不思議。 科学の「か」の字も無いような頃から、多種多様の生物が生まれ、進化して人類が生まれてきたという事実。 それは、「タオ」と言われるような壮大な「何か」が存在して、そこから常に何らかの「エネルギー」が送られ続けていて、 こんな風に生きて、動いて、考えたりできる。としか言いようがない。 ◎この世界の成り立ち そして、その「タオ」を通して、「陰」と「陽」という「両極」が生まれ、そのことによって、その「中間」つまり、 「限りなく陰」~「陰寄りの中間」~「中間寄りの陰」~「中間」~「中間寄りの陽」~「陽寄りの中間」~「限りなく陽」 という「空間」ができ、その中で「陰と陽のバランス」によって、「万物」が生み出されていった。 そこに私たち「個人の意識」が生み出され、それぞれを見て「これは山」「これは川」という風に「名前」を付け、「分類」「分別」していった。 だから「万物」はそれを捉える「意識」が「分別」することによって生まれてくるもの。 よく「スピリチュアル」や「悟り」系の話で、「この世界は幻想である」というのは、こういうこと。 全ては常に移り変わっていく「風景」のようなものだけど、それに便宜上「名前」を付けたから、それが「存在する」ように思うけど、 たとえば、よく言われるように、私たちの身体は、常に「新陳代謝」が起こっていて、 部分にもよるが、「約7年ですべての細胞が入れ替わる」と言われていて、しかも、見た目も年を重ねるごとに変わっていく。 果たして、1歳の時の自分と、40歳の時の自分は「同じ人間」と言えるのだろうか? その「常に入れ替わっていく体」に「山田太郎」と名付けるから、「山田君が居る」となるが、 それは今、「砂場の砂」が盛り上がったところに、「山田君」と名付けてみても、次の日には、もう「山田君」は消えているかもしれないし、 「形は変わっても、この場所が山田君だ」と決めれば、山田君は居るのかもしれない・・・。 つまり、この世界全体がそうで、常に「移り変わりゆくもの」に、一時的に「思い込み(名前)」を付与することで、「それがある」と感じている。 それと同じように、全てはその人の「思い込み」によって成立しているものだから、その「思い込み」を変えてしまえば、 全く解釈も変わって、同じことが起こっても、全然違うとらえ方ができる。 そして、違うとらえ方が出来れば、違う解決法も活用法も見えてくる。 だから、この世界は、「常にあなたの思い通り」とも言われる。 「老子」が繰り返し、「聖人は『こういう人』だと言えない」とか「知識を持つな」というのはそういうこと。 「この人はこういう人」とか「こういう場合はこういうことになる」と「知識」や「思い込み」で決めてしまえば、 次から、「そのように」しか見えなくなってしまって、新しい見方ができなくなる。 (逆に「山田君」が昨日とは態度が違ったりすると、「山田君らしくない」なんて言うけど、「山田君」はそもそも、「毎日変化するもの」だから、 ただ単に「自分の解釈と今日の山田君が違う」ということでしかない。) そうすると、本当は「昨日とは全く違う」ことが目の前に広がっていても、「ああ、この場所は知ってるから、どうせこうでしょ」と決めつけて、ちゃんと見ようとしない。 「タオ」からの「あなたが最高の人生を生きるヒント」が流れてきても、それを見逃してしまう。 だから「悟りを開いた」とされる人は、「今を生きよ」と口を揃えて言う。 ◎この世界は「比較」「対照」の世界である そしてこの世界は「高い」があるから「低い」が生まれ、「低い」があるから「高い」が生まれる。 「良いもの」を決めればそれと比較して「悪いもの」も生まれ、 逆に言えば、「比較対象」が無ければ、何も生まれない。 この世界が真っ暗闇であれば、何も確認できないし、光だけで真っ白で何の影も無い世界であっても、何も確認できない。 「闇」と「光」がセットで存在しなければ、何も生まれず、確認できない。 だから、「闇」も「光」も消すことはできない(必要)。 誰かが「正義」を振りかざすためには「悪」が必要になる。 だから「良い」も「悪い」も、絶対的に「良い」「悪い」も無くて、 「こういうルールにしましょう」と決めた時から、それから外れれば「悪」になり、その範囲内であれば「良い」となっているだけ。 動物の世界であれば、「弱そうな子供を狙って襲い掛かって、食べる」というのは「生きるために必要で当たり前のこと」だけど、 人間界でそれをやれば、「猟奇的なサイコパス殺人者」になる。 (もちろん、そういう人が悪くないと言ってるわけではなく) 全てのことは、私たちの「ルール」と比較して「良い」「悪い」を決めていることだから、 そこに必要以上に「憎む」「恨み」「怒り」などを感じなくて良いし、 逆に「良い」とされることを必要以上に賛美したり、推奨することも正しいかどうか分からない。 (強い「思い」「感情」を持ち続けていれば、本人がその「エネルギー」に影響されて、 その発散するエネルギーに相応しい「現実」を受け取ることになる。) たとえ、あなたが「世間の常識」からしたら「ダメな人」だと思えたとしても、それは、社会の中で勝手に決められた基準から外れているだけで、 あなたが「ダメな人」でもなければ、「直すべきこと」でもない。 「比較」によって、苦悩を持ち続ける必要もない。 ◎「思い込み」「こだわり」が苦しみを生む そして、これも「老子道徳経」の中で繰り返し書かれていることで、 「聖人は功績を上げても誇らない、地位にもこだわらない」ということ。 勿論何かを達成したり、功績をあげたら喜べばいいし、「私ってすごい」と思うことは自由だが、 それを「◎◎を達成した私」「常に美しい私」という風に誇って「持ち歩き」始めると、 それが同時に「苦悩」になっていく。 「地位に恥じぬように常に結果を出さねば」「私は常に美しくあらねばならない」 という風に、「◎◎な私」を守らなければならなくなる。 そうなると、年齢を重ねていくうちに「できなくなること」や「老化」なども「敵」になってくるし、 「人からどう見られているか?」という感じで、「プライド」を守るために無駄な労力を消耗しつづけることになる。 だから、老子はそれらの「功績、地位、名前・・・」などに拘らず、常にその場その場で「私ができる精一杯」をして、「結果に拘らない」ことが、 逆に、周りからも認められて、疎んじられることが無いと。 これは単純に「自慢」したり「地位に執着」したりするような人は、見ていても気持ちのいいものではないし、 「それだけ自慢するなら、自分の力でやってよ」と思われたりもする。一人でできることはたかが知れているから、結果的に大した結果は出せない。 また、「自慢」「執着」しなければいけない、ということは、その人の裏の心理では、「私は功績や肩書で埋めていないと、価値が無い」ということが見えるので、 その「裏の心理」通りの「(不足の)現実」が見えるようになる。すると、益々、功績や地位に執着しないといけないように見えてくる。「負のループ」。 だから「思い込み」や「こだわり」を手放した方が良い。 常に「何者でもない私」で居続け、その時その時に自分ができること、したいことを精一杯やるということ。 これこそが、「私を持たずに、無為で居る」ということ。 ◎「私」が居なければうまくいく この「無為自然」や「私はいない」ということは、老子だけでなく、古今東西の「悟りを開いた人(覚者)」は口を揃えて言う。 私たちは、「個人」を感じるために、「自我」というシステムを通してこの世界を見ている。 そうでなければ、すべてが「ワンネス」であるから、「自分の右手と左手でじゃんけん」するがごとく、「結果も分かって、おもしろくもなんともない」。 そのために「ワンネス」であることを忘れ、「私とあの人は別」と感じられる「自我」というシステムが必要になる。 しかし、その「自我」は常に、そうやって「私とあの人」という「分離」を生み出すためのシステムで、 その「分離」を強めるためには、「私とあの人は全然違う!」という「差異」が大きい方が都合がいい。 出来れば「敵対」してるくらいの方が、「いやいや!私とあの人は全然違う!!」と感じれば、 まさか「私とあの人が同じ」、「ワンネス」であるなんて思えない。思いたくない。 その方が「ストーリー」をたくさん生み出すには都合がいい。 だから、「覚者」たちは、「私を手放せ」「私という錯覚を見抜け」という。 常に「私(自我による錯覚)」が、「あの人」との「対立」「分離」を生み出すことによって、 「スムーズに人生が展開する」ことを邪魔するから。 あの「OSHO」も「竹のように空になれば、あなたが努力で成し得るようなことは、勝手に達成される」という風に言っている。 常に「空」でありつづけ、「私の頭」であれこれ考えず、目の前に現れたこと、自分の中に湧いてきた衝動に従い続ける。これこそ「無為」。 ◎そもそも「私」とは そもそも「私」というものは、生まれてから今まで、 両親や友人などの「周りの人達」から、「◎◎君」「◎◎ちゃん」と呼ばれ続け、 「◎◎君は足が速いね」「◎◎ちゃんは勉強が得意ね」という感じで、「評価」され続けてきて、 「ああ、僕は足が速いのか」「ああ、私は勉強ができるのね」という感じで、 すべて、「他人や環境からの評価」によって出来上がっていく。 これが、全く真っ白や真っ黒の世界で、たった一人きりであれば、「こういうものが私です」と認識できるだろうか? […]