☆[読んだ本7-1]「神との対話3」ニール・ドナルド・ウォルシュ 考察[1]

さて、最近すっかり「神との対話」シリーズをガッツリ読んでますが、

「神との対話2」も面白かったんですが、ちょっと政治とか教育的な内容が多くて、

このオンラインサロンで語るようなことでもないかな?という感じもしたので、

今回は「神との対話3」の言葉からの「考察」を書いてみたいと思います。

◎あなたは誰の物?

他人にどう思われるかを心配している限り、あなたは他人のものだ。外からの承認を求める必要がなくなったとき、初めて、あなたはあなた自身のものになる。

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私たちは無意識のうちに、子供のころから習慣で、

「誰かの承認を得る」ということを目指してしまう。

それはあなたが悪いとか、親が悪いとかではなくて、

誰しも、赤ちゃんの頃から、「◎◎ちゃん」「◎◎ちゃんは静かで偉いねえ」

「◎◎ちゃんは勉強は得意だけど、運動はダメねえ」・・・

という風に、「私」というものを「外からの情報」で知っていく。

だから、人生の前半は誰しも「人からの言葉、外からの評価」というものを「私」と思いこんで生きている。

だから、「誰かに認められる」ということでしか、「私」を確認する方法を知らない。

あなたを育てた両親も、まだそれを知らずにいる人も多い。

そこから、「あれ?私って本当はもっとこういうことが好き」

「私って、もっとこういう能力を持っているかも」と気づいていく。

その「本当の私」「私の性質」というものを知っていって、初めて「自分の人生」を生き始める。

そういう意味も含めて、昔から40代を「不惑」、つまり、やっと40歳くらいから、

「私」に迷わずに、周りに惑わされずに人生を生きることができるようになっていく。

◎教師が完璧である必要はない

あなたは自分が学ばなければならないことを教えるのだ。

完璧さについて語るのに、必ずしも完璧に語る必要は無い。
マスターについて語るひとが、必ずしもマスターである必要は無い。
最高レベルの成長を語るのに、必ずしも最高のレベルの成長を遂げている必要は無い。

ただ真実であろうと心がけなさい。真摯であろうと努めなさい。
過去に与えたと思ういろいろな被害を償いたいなら、行動で示しなさい。

できることをしなさい。そして後は忘れなさい。

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世の中には色々な「教師」が居て、スピリチュアルでも、

色々な「マスター」が居るけど、誰一人として「完璧」な人は居ない。

特に本当に「目覚めた」人は意外と「自由奔放」で「聖人君子」なんかじゃない。

それは、ただ「私」を知っているだけ。

「私はこれが得意で、これが嫌いで、この世界にこういう役割をするように生まれてきたんだな」

ということを理解して、その通りに生きているだけ。

その「教え」が誰にとっても「完璧」である必要はない。

その「教え」に共感できる人が居て、何らかの「救い」を与えられるなら、それでいい。

極端なことを言えば、誰も共感できなくても、その人にとっては「真理」であればいい。

映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のモデルにもなった、「天才詐欺師」のフランク・アバグネイル。

彼が、学校の教師(教員助手)として、誰にもバレずにいれた秘密を聞かれたときに、

「ただ、生徒たちより、1ページ先を知っていればよかった」と語ったように、

あなたが教えるのに、その分野を「完璧に知っている」必要はないのです。

もちろん、できるだけたくさんの知識を持って、どんな質問をされても即座に答えられれば最高ですが、

「生徒より、少し先を進んでいる」だけでいいのです。

何かを教えるときに、「完璧になってから」と言っていては、いつまでも教えるときは来ないでしょう。

まず教え始めれば、そのレベルに合った生徒が現れるものです。

◎罪悪感は毒

人間の唯一の敵は、罪悪感と不安だよ。
罪悪感は畑を枯らす病気だ。植物を殺してしまう毒だよ。罪悪感を抱いても成長はしない。ただしなびて死ぬだけだ。

あなたが求めているのは気づくことだ。気づく事と罪悪感は違う。愛と不安と違うように。愛と気づきこれが真の友だ。混同してはいけない。

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先ほども書いたように、私たちはどうしても基本的に、

特に両親からの「言葉」「思い」によって、「私」というものを創り上げていく。

「親(周り)の言うとおりにしておかないと、仲間外れになってしまう・・・」という恐怖感から、

「周りに合わせられない私はダメな人だ」という「罪悪感」を感じてしまいがち。

しかし、それはただ単に、「本当の私」と「周りから作り上げられた私」が違うということだけ。

あなたはあなたの奥から湧いてくる「衝動」「欲求」に従えばいい。

何かを埋めたり、誰かに気に入られるためではなくて、

ただ単に、「やってみたい」「感じてみたい」ということを何の罪悪感もなく、やってみたらいい。

「罪悪感」を感じないため、埋めるために頑張るのではなくて、

あなたの奥から湧いてくる「本当の私」に「気づく」ことが大切。

◎「神」と本当につながる方法!

神を恐れなくなった時、初めて、あなたは、私と意味のある関係を築くことができる。
あなたへの贈り物、特別の恵みがあるとしたら、私を発見させることだ。その時恐れはなくなる。
恐れぬものは幸せだ。なぜなら恐れぬものは神を知る。

恐れを捨て、神についての知識はどうでも良いと考える。
恐れを捨て、神について人から教えられたことからも外れてもいいと思う。
恐れを捨て、自分なりに神を体験しようとする。

それについて、罪悪感を抱く必要は無い。自分なりの経験が、人から教えられた事と違っていても、
罪悪感を抱く事は無い。不安と罪悪感、これは人間の唯一の敵だ。

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「神」は決して、あなたの「罰、バチ」を与えたりしない。

私たちは「神」の「子」であり、100%自由に、「あなたらしく生きること」を望まれている存在だから。

あなたが思う「神」のイメージは、きっと「両親」や「社会」のルールでしかない。

僕がもし、「スマホを触っていると、霊的なエネルギーがどんどん減っていきます」と一言言ったら、

あなたが次からスマホを触る時にちょっと気になるように、

子供のころから両親に言われてきたこと、周りの友人が言ってきたことなどが、

心のどこかに残っていて、それが「神のルール」のように、あなたに残り続けているだけ。

そんなものに縛られている必要はない。

あなたが心から望むことを意識して、それを形にしていく事だけを考えればいい。

世の中で語られている「神」はすべて、人間が自分たちの都合の良いように解釈した「妄想」でしかないから。

唯一のルールは、「あなたの人生はあなたが思っていることが、現実になっている」ということだけ。

「私はこんなもの」と思えば、「こんなもの」な人生が。

「私は素晴らしい」と信じれば、「素晴らしい」人生が。

それだけ。「神を知る」とは「私が何者かを知る」ということだけ。

◎あなたは常に「神と一体」である証拠

私があなたと共にいない時などない。一瞬たりとも、私の準備ができていない時などない。
私は常にあなたと共にいる。時の終わりまで。
しかし決して私の意思をあなたに押し付けはしない。
私はあなたのために最高の善を選ぶが、それ以上にあなたの意思を尊重する。

愛は自らのためには何も望まない。ただ、愛するものの望みが実現するよう願うだけだ。

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僕も過去に何度も書いてきたように、

私たちはどう考えても、常に「神」と繋がっていなければ、「神」としか言えないような「エネルギー」と繋がっていなければ、

こんな風に生きているはずがない。

これだけ科学が発達しても、タンパク質だけでこんなにずっと動いたり、考えたりできるロボットを創れるひとは居ない。

動物や恐竜なんかも居れれば、そんな存在が何万年、何億年前から存在している。

やはり、私たちが生きるには「神」は不可欠。

そして、もし、その「神」がずっと、あなたの人生につきまとって、

「こうしたほうが良いって」「ああ、それしちゃダメだよ!」って言って来たら

鬱陶しいはずw

本当の「愛」は常に「見守る」ということ。

まずは自分に対して、「期待」するのではなく、「信じて見守る」ということ。

あなた自身の本当の望みを理解して、それに向けて、環境を整えていくということ。

◎他者は存在しない

人が、人間関係で犯す最大の過ちは、相手が何を望んでいるか、何者なのか、何をしているか、
何を持っているかを心配することだ。
そうではなく、考えるべき事は、自分は何者なのか、何をし、何を持っているのか?
自分は何を望み、何を必要とし、何を選択するのか?
自分にとっての最高の選択とは何か?だ。

他者など存在しない、と気づけば、自分にとって最高の選択が、相手にとっても最高の選択になる。
したがって、過ちは自分にとっての最善を選ぶことではなく、何が最善かわからないことだ。
それがわからないのは、自分が何者でありたいのか、まして、本当の自分は何者なのかがわからないためだ。

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スピリチュアル的には、「私以外存在しない」とか「全ては一つであり、本当は分離していない」

というような言い方もできるけど、

たとえ分離しているとしても、分離しているからこそ、

あなたは、あの人の本当の心や状況、状態を理解することはできない。

だって、あなた自身だってきっと、「自分の本当の望み」を考えても、

即答ではっきりした答えは出ないと思う。

だったら、あの人もそうだし、それを「他人」のあなたが理解できるわけがない。

だから、「あの人がどう思ってるんだろう?」「あの人はどうしたいんだろう?」というようなことを考えても時間の無駄。

それよりもまず、「私は何者で、何者で居たくて、何を望んでいて、そのために何ができるか?」

ということを徹底的に分かっていることの方が大事。

そして、それを実行していく事で、自然と救われる誰かが現れてくる。

◎常にあなたが「何者か?」が大切

もしあなたがインディ500(カーレース)で勝ちたいのなら、時速150マイルで飛ばすのが最善だろう。だが、ちょっと食料品店までと言う時は、そうでは無いかもしれない。

人生は全てそうだ。何が最善かは、あなたが何もので、何者になりたいかによって異なる。自分が何者か見極めるまでは、何が最善か決められない。
私にとっての最善とは、あなたが自分にとって最善だと決めたものを与えることだ。
なぜなら私は自分自身を表現しようとしている。それをあなたを通して実行している。

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人生は「これをしたら上がり!」というわけではない。

常に、「私は何者か?何者で居たいか?」ということが一番大切。

あなたが「方法、情報」を集めるから「何者か」になれるのではなくて、

あなたが「何者でありたいか?」を決めた瞬間から、あなたの意識は、それに必要な情報を集め始める。

あなたがあいまいなままだと、あいまいな情報ばかりに踊らされることになる。

あなたが「私は◎◎です!」と宣言した時から、あなたの意識、「神」「天使」「守護」「ご先祖」「見えない存在」・・・

の全てがそのために動き始めると思えばいい。

◎すべては「陰陽」で成り立っている

私は常に、あなたにとって最善のものを与えている。ただし、あなたは必ずしもそれに気づいていない。私が何者であるかを理解すれば、少しは謎が解けるだろう。

私は全てであり、存在する全てである。そして私は、自分の全てを経験せずに、一部だけを経験することはできない。

あなたにはそこがわからない。あなたは私を1つに決めたがり、別のものではないと思う。
高いのであって低くは無い。善であって悪ではないと。
しかし私の半分を否定すれば、自分の半分を否定することになる。
それでは決して本当の自分にはなれない。

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この世界はすべて「陰陽」のバランスで成り立っている。

「悪」が無ければ、「善」は分からない。

「善」を決めた瞬間に、その逆が「悪」になる。

だから、絶対的に「善」が良くて、「悪」がダメ!とも言い切れない。

国や時代によっても「善悪」の基準は変わる。

そして、「貧しさ」が無ければ「豊かさ」も理解できないように、

全てに「表裏」があってこそ、この世界を体験できる。

つまり、あなたの人生に「最悪なこと」が起こったとしても、

それこそが現時点でのあなたには最適なことだったりする。

「最高においしいご飯を食べたい!」と思うなら、「究極にお腹を減ら」せば、どんな食べ物でも

最高に「おいしい!」と感じられる。

一度「貧しさ」を体験したほうが、より一層「豊かさ」を感じられる。

よく「コインの表側だけを受け取ることはできない」というように、

今、あなたにとって苦しい時期でも、「これこそが今の私に必要で、この後の経験のためには必要なんだ」と捉えて、

苦しい中でも、それをじっくりと味わって、常に

「私はこういう者である」ということを意識するようにしてください。